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リモート

集中できますか

 イーロン・マスク氏がリモートワークを認めないという発言をしたのが物議を醸している。コロナウイルス感染対策のために在宅勤務が推奨され、一気に普及した。日本でもこれを採用した企業は多い。

 マスク氏の発言にはリモートワークは非効率であるという意味が含まれるのだろう。実際にリモートワークの生産性については賛否両論があり、リモートにして業績が向上したという話も聞く。業種もしくは業務によってはリモートワークの方がうまくいくものもあるのだろう。

 さて、学習の方面ではいかがか。話を中等教育に絞ることにする。コロナ禍でリモート授業を行った結果、成績が落ちたという生徒が多かった気がする。その主因は慣れない学習形態が突然始まったために、準備ができていなかったことだ。それも慣れてくると次第に学習の仕方が分かってきたようだ。

 リモート授業に順応してもやはり効果が上がらない生徒がいる。彼らは対面せずに教育を受けることに向いていない。逆に集団の中では集中できないという生徒もいる。不登校になっている生徒の中に一定数この種の気質の持ち主がいる。彼らにとってはリモート学習は願ってもない機会だったはずだ。

 学校に通うことができる生徒にとってもリモート学習の一部が効果的であったという。科目や内容によっては自分のペースで学んだ方がよいものもある。学校の教員がどこまで関与できるのかは分からない。ただ、生徒の学習効率と結果を考えるとリモートか対面かではなく、両方を使い分けた方がいいのかもしれない。

事後指導

テストの後からの仕事

 教員をやっていると試験の成績はとても気になる。自分の伝えていることが伝わっているのかを反省しなければならないからだ。

 生徒の立場ならば個人の努力や学習量の問題として考えることが可能だ。よく言われたようにもっと勉強しなさいを自分に言い聞かせればよい。これが教員の立場になると話が変わる。個々の生徒にどのような指導をすることが適切なのかを考えていかなくてはならない。

 その点でかつてより楽になったのが機械採点システムだ。自動採点の精度はいまひとつなので期待していない。特筆すべきなのは設問ごとの得点計算が容易にできることにある。どの問題で失点したのかを掴むことで指導方針が立てやすくなる。

 業者テストではそれが行われていた。それが数名の教員で成し遂げることができるようになったのは大きな進歩だ。それをどう使うかが大切ということになる。

文章で

授業は対話

 授業のときに気をつけているのは発問をしたとき、その回答が文の形になっていることだ。何かを尋ねたとき回答が単語になっている場合が多い。これをいちいち言い直させる。

 対話型の授業にしようということで授業の中でやり取りをすることがある。なるべく個人の負担を減らすために予め周囲の人と話し合わせ、その中で出た内容を答えさせる。

 そして出た答えは文末まで聞き、文の形になっていることを要求する。会話をするように、会議をするように答えるというのが基本方針だ。表現する力、会話力もつけさせたいというのが真意なのだ。

 日々の積み重ねで口頭表現の力もつけさせたいというのが真の狙いなのだ。

人とは違う成長

伸び方はそれぞれ

 長年教員を続けているといろいろな生徒に出会うことになる。中には学力は高いがメンタルが弱い人や、人間的な魅力はあっても他人と共生する能力に劣る人もいる。こういう人たちは集団生活に適合しない人として問題視される。

 でも、その人の絶対的な評価が低いとは考えたことはない。いまの学校がもっている物差しでは測れないというだけのことだ。それぞれの人にはそれぞれの成長の過程があり、一見劣っているように見えても実は優れているといったことはいくらでもある。個性というにはあまりに曖昧かもしれないが、個々人の能力、コンピテンシーといったものは簡単に測定できるものではない。

 ところが、現実社会ではあたかも学力には序列があるかのように思わせ、性格にも強弱、優劣が数値化できるかのように見せることが行われている。学校などの教育現場ではそのうち現体制に都合のいいものを選び、その数値で人を評価している。数値化することは現状の把握のための手段であるから不要とは言えない。ただ、それは数多くある尺度のいくつかであり、別のメジャーをつかえば別の人間像になるということを忘れてはならないだろう。

 少々心配なのは教員になる人の大半は現行の教育のなかで優秀な成績を取り続けてきた人であるということだ。自らができることが生徒にできないはずはないとか、当然こうするべきだとかいう思い込みは捨てなくてはならない。効率主義の企業と教育の現場との違いはそこにある。

バランス

 

ほどよい課題

 できそうだけどできない。しかし、ちょっと工夫すればできる。そう感じたときに学習効果は上がるのだという。全く歯が立たないものは気持ちを萎えさせるし、簡単すぎても侮るだけだ。この匙加減が重要らしい。

 しかし、現場にいて困るのは様々な理解度習熟度の生徒が同居していることだ。個々に応じることは難しい。AI教育プログラムにはこれを解決しようとするものがある。ただ、プログラムに向き合う自主性は必要で、学習効果は限定的だ。学ぶ気持ちが少ない人には向かない。

 ほどよい課題で学びを促進するには、分かった人がまだ分からない人に教える仕組みを作るといいのかも知れない。互いに教え合うことで教える方は考えを整理し、教えられる方もやり方を学べる。

 教員の役割はきっかけづくりとこの難易度の調整、学び合いの促進にある。これは言うに安く行なうに難い。やり方を研究すべきだろう。

自信を持たせる

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 中等教育の神髄は何かと考えたとき私の今の答えは自信を持たせるということだ。何かを判断する、意見を述べるといった局面で必要な思い切りは、一種の自信が裏付けになる。それを保証してあげるのが中等教育の教員の役割である。

 中高生の意見はしばしば矛盾があり、視野が狭い。正論のように見えて実は世間の実情に合致しておらず、本当は成り立たないということもしばしばある。しかし、それをいちいちつぶしていたら現状打破の考えなど生まれ得ない。生徒に接するときにいつも気を付けているのは現状では間違いかもしれないが、将来はこれが標準になるかもしれないという予測をするという心の準備だ。

 年を取ると知識や経験が現状をさまざまに切り取っていく。それは多くの場合有益な生きる知恵となるが、同時にしばしば新しい可能性の機会をそいでしまう。悲しいことだが現実だ。安定的な時代であればそれでいい。しかし、今後の世界はかなり不安定だ。経験則が必ずしも役に立たなくなる。

 そうした時代を生きる世代のためには自ら考える力を与えることが何よりも大切だ。新しいことを考えるには一種の自信がいる。自信を超えた過信もいるかもしれない。学校はその体験をさせる場となる必要があるのではないか。失敗が許され、やり直しが当たり前のように行えるのは在学期間までだろう。もちろん実社会でも失敗は可能であるかもしれないが損害が大きい。間違ってもいいから正しいと思うことを言ってごらんといえるのは教員の特権かもしれない。

 そのためには自信を持たせるための方法を獲得しなくてはならない。教員としてのスキルを再認識する必要がある。独善的な考えを注意深く排し、本人の可能性を伸ばすような指導ができれば教員としての本望だ。自分はできないが生徒にはできる。そういう考えが必要だ。自分の育てている人物は今は未熟でも、将来自分を凌駕する大人物になる。そう信じることが教員の基本的な資質であると信じる。

紙の教科書

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 デジタル教科書に対する不安感は根強い。4月17日の読売新聞朝刊にデジタル教科書全面移行「懸念」86パーセントという記事が載っていた。懸念の原因としては端末の故障や不具合といったハード上の問題が最初に上がるようだが、現場の教員としてはむしろ教育効果の問題の方が大きいと考える。

 デジタル教科書は情報量や検索とリンクした多機能性など可能性が大きい。機器的な故障や、通信障害などは今後改善が進んでいくものと考えらえるし、機器の価格も安くなっていくかもしれない。重い鞄を発育段階の子供に強いるということも軽減される。音声読み上げなどの機能はハンディキャップの克服にも寄与するだろう。

 だが、少なくとも大学に入学する前の子供に万能のデジタル教科書を与えることには弊害がもたらされる可能性もあることを知らなくてはならない。考えるという行為は利便性と必ずしも正の相関関係にはない。すぐに答えが見つかる、わかりやすいという状況は考えるという行為を阻害しまう可能性もあるということである。

 紙の教科書にもいろいろあって、最近の教科書は至れり尽くせりである。かつてなら自分で調べなくてはならないものがほとんど始めから掲載されている。今使っている教科書などはQRコードまでついていてWEBサイトまでいけるのだ。こういう教科書はもうデジタル教科書の一歩手前にある。

 本当は想像力と知的探求心をつかって何もない紙の平面から様々な世界を自分で探し、つなぎ合わせる力を育てるのが教育なのではないか。それをデジタルで近道しようとするのは逆に考えることができない人間を量産することにつながるのではないかというのが私の第一の懸念事項である。デジタル教科書を効果的に使うことはよいが、それだけにしてしまった後の展開は何か恐ろしいものを感じる。杞憂であればいいのだが。

気づかせる方法

気づかせる
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 教えることというのは情報の伝達ではないことが分かってきた。ある情報を他人の記憶に移すという行為は大切だが、この方面については人体以外の道具が補ってくれる。伝統的には筆記をすることで記録が残るし、最近ではコンピューターが膨大なデータベースを構築し、なおかつ瞬間的な検索も可能だ。情報の蓄積が知識というのは、大きなものの一部分を指しているに過ぎない。

 知とはどのような行為かを改めて考えると、現実には目の前にないものや現象を考え、何らかのイメージをつかみ取ることではないかと考えられる。その際に過去の歴史や、自らの経験が役に立つ。しかし、それらの情報はあくまで考えるための材料であり、知的行為はつねに現在行われるものである。

 教育の場面も先人の巨大な肩の上にの乗るだけではなく、そこでどのようにものを見て、何をつかみ取るのかを経験させることが必要だと考える。文法、語彙の知識、理論や法則、歴史上の事件などを駆使して自分なりの世界の捉え方を試してみるというのが学校という場所なのだろう。

 残念ながら、私自身は単純な知識の蓄積が学問だと考えてこれまでの人生の大半を送ってきた。学術論文を書くときにわずかにそれを超えた実感を持ったが、多くは他人の用意した快適な空間の中でなにも疑問を持たず、新たな提案もせずに生きてきた。平和に生きるためにはそれが必要だが、それだけでは閉塞的な状況からは抜け出せない。

 学ぶということは教員の伝えることを吸収したうえで、それを乗り越え、批判して、自分なりのやり方を試行錯誤する段階にいたることであると気づかせなくてはならない。それには教員が用意した知識の再現を評価のゴールにするのは間違いなのだろう。

考え方の癖

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 考え方には癖があるのではないか。その癖を利用すれば効率のいい教育ができるかもしれない。

 新しい学びを始めるとき、私の場合はノートを広げても何も書き始められない。何を書けばいいのかわからないのだ。思考の手順というか、道筋というのが見えていないうちはいろいろな情報がただ並列に広がっていく。思考のテーブルに置ききれなくなってこぼれ出すと学習の意欲が消えて行ってしまう。

 何かを考えるとき、最低限の道順を決めてあると学びが続きやすい。それを助ける役がコーチなのだろう。まずこれをやり、次にこれをやるといった助言だ。自走できるようになったら本人が学びの幅を広げられる。その先はコーチの能力を超えていく。学校の教員ができるのはこの役である。

 ならばコーチは、つまり教員は生徒の学びの癖を知り、学びやすいように助言をすることが職務上の重要事ということになる。そこまで私はできていない。相変わらず、教科書を右から左へと読んで聞かせているに過ぎない。

 教員の仕事は教材を提供して考える空間を作り、最初の二三歩の歩き方を教える。そこに尽きる。考え方の癖は一人一人違うはずだ。それを知ること、そして面談を繰り返すことが学びの発動にはかかせない。しかし、それはできているのだろうか。

成長

 

育てるとは

 花を育てたり、動物を飼っている人はよく理解しているはずだが、成長の仕方には個体差がある。どれもが同じように育つのではない。人もそれと変わりない。

 育苗の例でいえば、揃わないものを間引くという作業がある。経験上、この時期までにこの段階に達しないものは結実しないといった知識がそうさせる。ただ、それは統計上の確率であって、実際の結果は誰にも分からない。

 人に対しては動植物ほどには露骨に差別はできない。でも、今の時期ならこのくらいできるのは当たり前だという考えが潜在している。できないことに苛立ち、ときに叱責する。でも、成長は個人差があるものなのだ。

 教育を生業にしている身としては至極当然のことであるのに、時々忘れてしまうことがある。だからときに花を見て思い出さなくてはならない。