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集まるな

 コロナウイルスの流行に伴い最近は様々なイベントが中止されています。楽しみにしていた観劇も主催者側から中止の告知がありました。

 いまの社会状況は集まるなというなんとも面白くないものです。集まらなければできないことが封じられるということは人間の可能性の大半を捨て去ることに等しいのです。インターネットの普及で仮想的なつながりはできたとしても、私たちはメディアの介在を無視できるほど鈍感ではありません。

 とはいえ、この状況をなんとかしなくてはならないことは確かです。人との新しい連繋のあり方を模索していくしかありません。それを考える機会が与えられているのだと考えてみたいと思います。

共同体という考え方は誰が教えるのか

 世界的な社会分断が進行している中で、日本の社会も中流意識は急激に減少しつつあります。自分さえよければそれでいいという考え方に行きつくこの流れは非常に危険なものです。人間が社会的な生き物であるという考え方を誰がどのように若い世代に伝えていくのか。大きな問題です。

 私たちはこの存在に関して過大評価をしてきたのかもしれません。確かに個人の努力は重要であり、それがなければ何も始まりません。しかし、個人の業績は必ずしも自己の利益を増大するためのものではありません。共同体の福祉に何らかの好影響を与えるものでなくては意味がないはずです。自分の成功にはその周囲にいる人々のさまざまな支援や利害関係が影響を与えています。自分だけがうまくやったというのは思い上がりにすぎません。その成功を形成した社会システムがあるからこそ達成できたもののはずなのです。

 成功者はそのシステムがよりよいものになるよう、また自分以外の存在にも利益がもたらされるよう考える必要があります。自らの共同体が衰退してしまえば自分の成功の価値も目減りすることになり結果的に不幸になるのです。こうした考え方を私たちは常に持っていなくてはならないはずなのですが、そして横溢する情報社会の中で容易に得られる叡智のはずなのですが、つい忘れてしまうのです。

 我が国を衰退傾向に向かわせているのは少子高齢化などの不可避な情勢が要因ではありますが、それよりもむしろ共同体を皆で支えていこうという考え方の欠如がそうさせているのかもしれません。国のために働くという考え方は極端な全体主義として戦後日本が避けてきました。しかし、共同体意識の欠如がもたらす悲劇はそれ以上です。仲間を大切にすること、先に進んだものが振り返って周囲を助けることというのが今後の社会では特に大切になるであろうことをどのように意識し、伝えるのか。それが大きな課題になっています。

カジノ反対

 IR誘致に関して贈収賄があったことでカジノ誘致に対する関心が再燃しています。私はカジノの設置には反対します。

 カジノが国と自治体の主導で始められようとしているのには、多額の安定した税収の確保が見込まれるからです。造ってしまえばどんどん金が転がり込んてくるわけですから、人口減少や高齢化で苦しくなっている財政を改善する方策として効率がよいのです。統合型のリゾートと言ってもカジノの収入以外はあまり期待されていません。

 我が国はカジノの設置を認めなかったために、ギャンブルは極めて限定的なのものになりました。競馬や競輪などのスポーツや、パチンコなどのゲームなどは公認されており、税収も期待できますが、その他の地下に潜った賭け事はあくまて闇から闇に消えていきます。それをカジノ施設が管理統括すれば飛躍的な税収が期待できます。

 ただ、すでにカジノをもっている国々からの報告をみると、どこにも必ず一定数のギャンブル依存症が存在し、それが犯行にも繋がっているといいます。それが分かっていながらカジノを造ることの不誠実を考えるべきではないでしょうか。

 税収を得るための方策は別の方法で考えましょう。一度できてしまうと安易な道に深入りしてしまう。カジノ設置には反対します。

初詣の意味

 日本人は無宗教だという錯覚を見事に打ち消す習慣が初詣です。ただ、多神教の民族は一つの神だけに祈りをささげることはなく、すべての神が信仰の対象になります。私もすでに二柱の神に祈りをささげています。

 さて、初詣をすることには副次的な意味があります。それは地域の連帯を確認することです。遠方の名刹を訪れることもありますが、初詣の基本は産土の神への参拝です。そこには地域の住民が集まります。村社会でない限り、同じ地域に住んでいてもほとんどつながりがないのが現状ですが、同じ神社や寺に参拝するということで何らかのつながりを感じることができます。これは教会に通う一部の宗教ほどではないにしても、またかつての檀家のような集団にははるかに及ばないものの一定の意味があります。

 同じ地域に住む者同士が共同体の中で生活しているということを初詣を通して感じることができることは昨今の人間関係の希薄化のなかでは有意義です。同様の働きをするものとして他には地域の祭りもありますが、実施できるところとそうでないところがあるのが実態です。参拝は無意味と考えるのは合理的のようで実は大切な効用を見失っているのかもしれません。

初詣には意味がある