タグ: 倫理

発信源は特定可能

最近、誹謗中傷をネットに書き込んだことで起訴されるケースが増えている。匿名にしても発信者の特定はかなり正確に行えるようだ。そして立件されればかなりの経済的、社会的ダメージを受けることが分かってきた。落書きと違うのはそれが永遠に保存され、何度も責任追及される可能性があるということだ。

 デジタル社会は個人の行動を個別に保存し、必要なときに取り出せる能力を持つ。誰がいつ何を書き込んだのかについては記録されているというのが現状だ。

そうした窮屈さ息苦しさを我々の子孫は耐えていかなくてはならない。隣のあの人が何をしたのかをデータベースから検索するちょうどその時、私自身が何者なのかを検索の網が追いかけていることを考慮しなくてはならない。

個人的な思いを記すのは自由だが、それが他人にどのように受け止められるのかは分からない。どう解釈されても説明可能でなければならない。それが難しいならば公開は控えるべきなのだ。

苦手なものは誰にもある

 人には適性というものがある。オールマイティと言われる人もよく見れば苦手なことがある。彼らはその苦手なことを目立たないようにするのが得意だ。だから、何でもできる人のようについ思ってしまう。

 私のようにいろいろな面で難渋している者には、言う資格はないのかもしれないが敢えて言おう。苦手なものがあることは個性であってそれ以上ではない。できないことがあるのは当たり前で、その点だけ取り上げて非難するのは間違いだ。そういう君もできないことがあるはずなのに、何を偉そうにと私などは思ってしまう。直接言えないが。

 最近、ある局面だけで他人を見下す人が増えているように思えてならない。恐らく見下す人もどこか自己肯定感を持てておらず、他人をけなすことでようやく自己を保っているのかもしれない。哀れだがこれは互いを低め合う悪行である。本当に相手を貶す意味はあるのか。自己満足のために他人を巻き込んでいないかは考えて見るべきだ。

 人間は集団の生物であり、ある意味互助で進化の過程を切り抜けてきた。その精神が失われたとき、弱い生物に転落するのだろう。残念ながらいままさにその過程にある。

 自分の不完全さを知り、同族に助けてもらえる知能を獲得できていることを思い出す必要がある。援助をAIに求めるならば、人間はますます分断されていく。私の人生の尽きるまではそう間がないが、その間にヒトの生き方を思い出す機運ができればいいと思う。