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声援

 声援に意味があるのかという素朴で根本的な問いを考えてみる。言わずもがなの結論であると先に述べておく。

 何かをするのは当事者であり、どんなに周囲が動いてもそれだけでは意味がない。手を貸したり、資金的援助をしたりと何らかの実質的な支援をするならば別だが、声をかけるだけの行為に効果はあるのだろうか。

 私たちはそれが有意義であることを経験的に知っている。それは私たちの行動が言葉によっているからだ。私たちはごく自律的な身体行動を除けば言葉によって行動している。どのような言葉で行動するかによって行動の程度が大きく変わるのだ。

 だから行動を加速する言葉は効率を上げ、抑制する言葉は過度な刺激から身を守るきっかけになる。だから、声援には意味がある。

師に出会うなら

 教育において師匠の模倣が大切だということは日本の教育に根強く残っている考え方である。ただ、この基底には弟子の師匠に対する無批判かつ無根拠の信用が欠かせない。よく分からないがなんだか素晴らしいと思う人物に出会ったとき、学びの効果は最大限に発揮される。これは伝統的な武道や芸事の世界では普通に見られることだ。

 ところが、今日の学校教育ではそれが通用しない。教師が生徒を評価するのと同様に教員も常にだれかに評価されている。教員としての自尊心は早くから傷つけられ、産業的効率性の中に位置づけられ数値化される。教え方がうまいか下手かが例えば、教えた生徒の受けた数回の試験で計測されていく。これでは伝統的な師は生まれない。学校にいるのは常に自らが淘汰されないかをうかがう労働者に過ぎない。

 伝統的な学びの発動をもたらしたいのなら学校はやめた方がいいのかもしれない。むしろ私塾のような場所で自分の習いたいことを習える環境を作った方がいいのかもしれないのだ。自分にとっていい師を見つけるのは実はとても大変だ。たいていはまやかしかも知れない。でも本当の師匠を見つけた弟子はきっと師を超えることができる。これが東洋的な教育なのだと思う。わずかに大学院の研究室などにそれが残っていると信じたいが、どうなのだろう。

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善意も悪意も

 非常事態が続くと人の本性のようなものが見えてくるのかもしれません。性悪説でも性善説でもないありのままの人間の姿が。

 マスクを高額転売したり、一部の人を差別したりする人がいる一方で、社会に貢献するために利己的献身的に働く人もいます。悪を糾弾する人、その後方にいて無責任に声をあげて結局憂さ晴らしをしているだけの人、人の気持ちを理解できない人など様々です。

 結局そのどれもが人間であってどんなに文明化が進んでいっても精神の発達は難しい。過去の歴史が繰り返していたことをいまだに続けている。これが人間の性であり、長所であり欠点でもあるのだと改めて痛感しています。

乱世型

 人にはいわゆる乱世に強いタイプがあるようです。ルールが固まる前の混沌とした時勢に台頭する人材です。問題が多いですが魅力的でもある乱世型の人物こそ、いまの社会に求められているのかもしれません。

 価値観やその評価法が固定すると、社会は安定します。無駄な活動の少ない効率的な社会組織が理想とされます。平時はこれが理想なのですが、システム自体が機能不全に陥ると、社会全体が危機的状況に没入してしまうのです。その救世主になる可能性を持つのが乱世型人材です。

 救世主待望論は独裁者などの誕生を助長した歴史もあり、慎重にならなくてはなりませんが、それでもやはりなんとかしたいという気持ちがあります。時代にあった人材を育成するのが教育に携わる者の使命なのかもしれません。

集まるな

 コロナウイルスの流行に伴い最近は様々なイベントが中止されています。楽しみにしていた観劇も主催者側から中止の告知がありました。

 いまの社会状況は集まるなというなんとも面白くないものです。集まらなければできないことが封じられるということは人間の可能性の大半を捨て去ることに等しいのです。インターネットの普及で仮想的なつながりはできたとしても、私たちはメディアの介在を無視できるほど鈍感ではありません。

 とはいえ、この状況をなんとかしなくてはならないことは確かです。人との新しい連繋のあり方を模索していくしかありません。それを考える機会が与えられているのだと考えてみたいと思います。

見え方

 自分の視覚や聴覚を真実の姿と考えるのかについては太古から議論があります。人によって感覚に微妙な差があることが証明されるようになると、この議論は様々に展開されました。

 たとえ物理的身体的な条件が同じでも対象をどのように捉えるのかは均一にはなりません。個人の経験に加えて文化的なバイアスも加わるために感覚は無垢ではありえないのです。

 そもそも私たちは過去の経験と照らし合わせて現実を認識しており、その時点で皆が同じものを見ることはほぼ不可能であるといえます。ことばの力によって、実は多様な現実をいくつかにまとめあげパン、小異を捨てて共通項を見る習慣を獲得したために混乱は起きません。

 ただ、見えているものが違っているという事実は忘れてはならないことであると常に思い返しているのです。

善意の連鎖

 私の通勤で使う道には自主的にゴミ拾いをする方がいます。最近2人目の方に出会いました。

 道端に落ちているゴミをトングを使って拾い集めているご高齢の女性がいました。持参のビニール袋には結構な量のゴミが集められていました。さり気なく作業をするその方の様子にはちょっとした感動を覚えました。

数日前から別の男性がゴミ拾いをなさっている姿をお見かけするようになりました。もし善意の行動が広まったとしたのなら、すばらしいことです。ボランティア活動は現代の日本に必要です。これが善意の連鎖ならばこの世の中も捨てたもんじゃない。

 他人のことを誉めるだけではなく、自分には何ができるのかを考えることが大事です。いかにして社会に貢献できるのか。身近なところから考える必要がありそうです。

人のスペック?

 自己肯定感が低いのが日本の学生の特徴であるとは、昨今の世論調査の示す事実のようです。どうせ私はと考える人が多いのは商品同様に人材もコモディティ化しているかのような錯覚を与える社会になっているからかもしれません。

 コンピュータの性能を表すスペックという数値があります。CPUの演算能力やディスプレイの解像度など、パソコンを選ぶ時の基準となる数値です。最近、これを人間にも当てはまる表現をしばしば目にします。身体的なデータに加えて、就職先、年収、結婚歴などが数値化されてスペックと表現されているのです。ある種の企業にとってはこれが選抜の基準になるのかもしれませんが、実はこれも自己肯定感損失の大きな要因になっていると考えます。

 他人と比較する数値において特別に目立つ存在になることはかなり困難です。そして自分よりも数値が上の存在を知ることで得られるのは失望が大半とあれば、何もいいことはありません。私も含めて多くの人は凡庸であり、それゆえに社会が成り立っているといっても過言ではありません。

 問題なのは凡庸な数値を持つ私たちが等閑視されてしまうことです。実は個々人が別々の背景を持ち、積んだ経験も少しずつ違うのにも関わらず、あたかも同じような人、その他大勢のような扱いを受けてしまうのです。それでは自己肯定しようもなく、むしろ無力感に覆われるばかりです。

 私たちは個々人の個性を認められる環境を作らなくてはならないし、その意味で人材を生かさなくてはならない。ダメな人たちではなく、ダメだと思われている人たちの本当の輝きを見つけなくてはならない。自信を失った人たちに役割を与えなくてはならないのです。

 あまりにも単純な人間の扱いが現在の危機を招いているというのが私の考えです。私たちは自らの持てるものをもっと活用することを考えなくてはならない。それが生き残るための最低条件です。

突発的な回想

 何かをきっかけとして過去のある場面が突然想起されることがあります。それが特にこれといって何か印象的なことが起きた記憶とは限らず、場合によっては日常的な風景であったりするのです。

 どうしてこの風景が思い出されたのか分からないときには、色々な理由を考えます。ただ、そのどれもが後付けのような気がします。おそらく記憶がフラッシュバックするにはそれなりの因果関係があるのでしょうが、それは日常の論理とは少々異なっているのでしょう。

 思い浮かんだ風景に救われることもあります。忘れていた何かを思い出すことで救われた気持ちになることもあるのです。苦い経験もそれを乗り越えて今があるということを再確認させてくれます。

 少なくとも記憶という側面に関しては私たちは時間軸というもう一つの次元を持っているといえるのかもしれません。それを自在に操ることはできないのが残念ではありますが。

飛び立ちかねつ

 人間の悲劇というものは己の姿を俯瞰して見られないことにあると最近つくづく思うのです。

 私たちは自分の経験と知識の中で生きています。それは誰でも同じことです。自分以外の誰かになることはできないし、どんなに想像の翼を広げても自分の見た風景以外のものを実感として捕らえることはできません。だから、自分の経験こそが世界のすべてであるかのようにふるまい、それが間違いと分かってもどうしようもないのです。

 哲学者は俯瞰することを常としています。人間は…という大ぶろしきを敷くことが哲学では大切なのです。でも、私たちは結局自分の見たものしか見られないし、聞いたことしか聞けない。それ以外のものを知覚することすらできないのです。メタな認知をすることが大切だと知識人はいいますが、そもそもそれができるならば苦労はない。私たちは自分の経験のバイアスの中で世界をとらえるしかないのです。

 だから、私たちの考え方は根本的に独りよがりで利己的です。それを自覚することは大切だとつくづく思うのです。ネット社会は検索という便利な手段を提供してくれました。その陰で情報の一つ一つは結局、個人の経験が生み出した見解であるということが忘れ去られようとしているのです。

 もう一度根本に立ち戻るならば、自分の考えはあくまでも自分の正義の産物であり、それは必ずしも他の人に当てはまるとは限らないのであるということです。鳥ではない私たちは自分の姿を見下ろすことはできません。それが様々な悲劇をもたらしていると考えたのです。