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切り取り

 発言の一部を巧みに摘出し、ときに組み合わせて発言の内容を曲解することがよく見られる。切り取りと言うそうだ。短い動画が世界的に流行しているがこの歪曲された情報はその中でループされている。

 話法に譲歩の型というものがある。簡単にいうと、一般的にはAだが、私はBだと考える、といった論法で、筆者のいいたいことはBの方でAは比較される材料に過ぎない。しかし、悪意のある切り取りではAの方が引用され、真意は伝わらない。

 受け手としてはそれがどの程度の引用なのかを考えなくてはならない。本当にそんなことを言っているのか。限りなく原資料に遡及する努力は必要だろう。ショート動画やソーシャルメディアにそれが掲載されていても鵜呑みはできない。

 発信者の方も工夫が必要になる。切り取られにくい論法を考慮しておく必要があるのだ。どこが引用されても曲解されない工夫はやはり必要である。メディアリテラシーは細部に渡り必要になっている。何が本当でどこにまやかしが潜んでいるのか。常に注意しなくてはならないのだ。

SNS年齢制限は妥当だが

 オーストラリアの上下両院で16歳未満のソーシャルメディアの使用を制限する法案が可決された。国民からの支持も強いらしい。ソーシャルメディアに流れる情報は玉石混交であり、個人や団体への根拠薄弱な誹謗中傷も日常的に出ている。加えてAIを使ったフェイク画像、動画も多く、いわゆるメディアリテラシーがなければ虚偽の情報に翻弄されてしまう。

 オーストラリアはインターネットが非常に普及しており、若年層がソーシャルメディアの閲覧をきっかけに犯行に及んだり、自殺したりするケースが多いのだという。情報によって追い詰められた人の行動が悲惨な結末に至るのはどの国も同じようだ。

 若年層が被害に合いやすい現状では制限をかけるのも仕方がない。無法地帯に踏み込む準備ができるまでの猶予だ。ただ、これは年齢だけが解決するものではない。いくつになっても条件はあまり変わらない。SNSで繰り広げられるはかない嘘話に精神を吸い取られている人は年齢に関わらず多い。

 情報を規制されるのは大いに問題があるが、ときには自らメディアとの距離をとるのもいいのかもしれない。

同じことがあなたにはできるのか

 観客のヤジは度を過ぎると醜いものがある。かつて球場でプロ野球を観戦しているとその類の人がいたが、周囲の目もあり、ある程度の自主規制はあった。中には別の観客から注意されることもあり、歯止めがかかることもあった。

 それと同じことをネットでやってしまうと問題が起きる。誰も止められない。匿名で言いたい放題を言って、誹謗するのは困ったことだ。言った側はそれで気が済むのかもしれないが、言われた側は深く傷つく。

 実は訴訟の対象となればソーシャルメディアの発信源の特定は可能であるらしい。匿名でも様々な方法で特定できてしまう。露見すれば民事及び刑事の処罰対象となる。言っておしまいにならないのがこの問題の根深いところだ。

 スポーツ選手に対する中傷は、敬意の欠落によるところが大きい。同じことがあなたにできるのか。冷静に考える必要がある。

監視するだけではなく

 久しぶりにTwitterにアクセスしてみた。もっともいまはXというそうでそっけないロゴになった。最近のニュースではいわゆるブロック機能をなくすという発表があったようだ。したことも(たぶん)されたこともないので私には縁がないが、誹謗中傷から身を守る手段の一つのようでそれをなくすことには疑問を感じる。

 そのXの通知をみると、不道徳とか暴力的だというコメントとともに、該当する行為をしている動画が添付されていた。なんの加工もされておらず、個人の特定ができそうだ。確かに悪質なものもあり、許しがたく感じられるものもある。ただそれを不特定多数の人に拡散していいのだろうか。あるいは投稿者の思い込みの可能性や、悪意のある加工の果てではないのかなどと考えてしまう。告発する側は匿名であるのも不公平だ。

 ソーシャルメディアが監視のために使われている。あのパノプティコンの例えを想起されるのだ。個々の正義は保たれるように見えて実は社会をどんどん息苦しくしている。公衆道徳を高める方法は告発だけではないはずだ。