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誰もが二刀流

 二刀流というと宮本武蔵の剣術のことだったが、今は大谷翔平選手のことを想起させる言葉になっている。プロ野球において投手と打者の両方で一流であることは難しく、大谷選手がそれをアメリカで実現していることが賞賛されている。

 二芸ある人を二刀流と呼ぶこともある。職業を掛け持ちしている人といえば、かつては兼業と呼ばれた。地方に行けば会社員でありながら農繁期は米作をするいわゆる兼業農家は普通にいる。農業が専業ではやっていけないことから生まれたスタイルだと思うが、今考えてみればまさに二刀流であり、理想的な生活スタイルだ。

 農業ではなくても、二つの仕事をこなしている人はたくさんいる。会社員でありながら、土日はスポーツ少年団などのコーチであったり、塾の講師であったりするのはこれも二刀流だ。私も前の仕事では、学生に授業をすることと、自分の研究をして論文を書くこと、社会人のための講座の講師をやることなど二刀流をやっていた。それがもしかしたら、当たり前の人生のあり方なのかもしれない。

 ここ十数年はすっかり専業体制になってしまった。それが一流であるならばいいが、私の場合はそれ以下である。誇れるのは欠勤が少ないことと、自分が至らないことを自覚できていることくらいだ。二刀流という言葉からは程遠くなってしまった。

 矛盾することを言うようだが、人は誰でも兼業で生きている。例えば運転手なら、一日中運転手という訳ではない。家に帰れば父親としての役割があるのかもしれないし、趣味の時間はそれなりのこだわりの行動をする。それらのどれもに自信をもっていれば立派な二刀流プラスアルファなのだが、多くの場合その矜持はない。でも実態は人は何役もこなしている役者なのである。

 自分がやっていることにもっと意味づけをし、それらに誇りを持たねばならないと思う。自分の生活の多面性を認めれば、何か一つの基準に縛られていらぬ劣等感にさいなまれることはない。自分の可能性をいろいろな面で生かせれば、そこに利他的な側面も現れ、結局本当の意味での社会人になれるのだろう。収入に直結することではなくでも自分はいろいろな役を演じながら、社会のためになることをしていることを実感したい。人は誰でも二刀流で、しかも一流の社会人になる可能性があるのだ。