タグ: コミュニケーション

実感

 実感を伴わない行動は次第に廃れていく、そんなことを実感しているこの頃です。

 何でも代替できると考えたいのが私たちの心情にはあります。技術の力が上がれば擬似的な経験もできるし、その精度もあがっていく、だから直接体験しなくても、それに代わるものがあれば、目的は果たされるのではないかと。

 しかし、実際には百聞は一見にしかずの状況は変わることなく、メディアを通してのコミュニケーションのもたらす意思不通の現実があります。やはり私たちは空気をともにすることによって情報のやりとりをしているのです。

 実感を大切にすることは人の和を大切にすることにも繋がります。こういう時勢だからこそ痛感するのです。

安心のもと

 リモートワークが進んでいる現状てはソーシャルディスタンスも致し方ありません。カタカナ語に惑わされているうちに私たちは大切なものを失いつつあるかもしれません。

 ウイルス感染予防のための密なる状態を避ける方策は予防医学的には有効であっても、生物としての人間のあり方とは大きくかけ離れています。集団で生き抜く戦略をとった人類にとって、根本的な行動様式を奪われたことは死活的問題といえます。

 インターネットという擬似的連帯を得る道具も、リアルでない以上様々な弊害を逃れることができません。大事なのは現実感、実態感のあるコミュニケーションです。ブロードキャストではなく、私だけに向けられた会話こそが失われた連帯を思い起こすきっかけになります。

 不安な時代の安心のもとは何かを考えていかなくてはならない。それがいまできることなのです。

言論統制

 中国武漢で発生したと言われる新型肺炎の報道についてはいろいろと考えさせられます。目的は何かによって報道の中身がまったく変わってしまうということを改めて痛感しています。

 発生段階で新型のウイルスであり、大量感染の可能性があるとネットに書き込んでいた武漢の医師は当局でデマ拡散の行為により処罰されていたとのことが報じられています。これが事実ならば予防線を張る機会を人的に奪ったことになり、当局の判断ミスは重大です。デマによる人心の撹乱と、危険察知のどちらが重大かを考えなくてはなりません。中国は言論統制がしやすい政治体制にあることは知られています。ただ、これは共産主義国家でなくても起こりうるケーススタディになります。

 武漢から帰国した邦人に対する報道についてもマスメディアやソーシャルメディアの報じ方について注目すべき点があります。人権と公共の福祉とのバランスをどのように考えるべきか。この問題も臨機応変の判断が求められていきます。

 以前の新型インフルエンザ流行のときにも行き過ぎた報道が問題になりました。私たちは適切なメディアリテラシーと判断力とを持たなくてはならないようです。

ガラケーの意味

 父が携帯電話を水没させてしまい買い替えることになりました。高齢者にとっては画面操作は難しくやはりフィーチャーフォンにしたいと考えています。

父の行動を観察していると、一つの画面を切り替えてさまざまなタスクを行うスマートフォンのやり方は難しいようです。やるべきことがボタン一つで行えるショートカットが欠かせません。さらにタップ、フリック、スワイプなどの動作は実は繊細な使い分けが必要です。それもスマホ普及以前の世代は理解が難しい。加えて指先の感覚が衰えていることや、老眼で焦点が乱れるのも操作を困難にしています。音声入力は発音の不明瞭さが阻害要因となります。

 これは将来の自分自身の姿であり、高齢化社会を邁進するこの国のすぐ先の状況でもあります。高齢者の視点、能力を考えた技術開発が必要だと痛感しています。いまのところ当分ガラケーの存在意義はありそうです。