説経節の理不尽な美意識

 俊徳丸などの説経節の収められている文庫本を読んだ。学生時代、強制的に読まされたときには何とも支離滅裂な刺激的な展開だけを追求した作品かと思っていた。この齢になって読み返すと何とも哀れ深い芸能であったと気づいた次第である。

 説経節の主人公達は理不尽な逆境におかれ、それがストーリーの中で必ずしも好転しない。むしろ残忍な結末に報われない事実を突きつけられるのである。中には死後神格化されたことをもって悲劇を回収するものもある。現代人には理解しがたいのは、人生の中で精算がなされなければ意味がないと考えるからであろう。

 説経節がジャンルとして残ったのは、当時の価値観にかなっていたからだろう。能楽や歌舞伎に展開したのは基本的な精神が共通するからであり、それこそが現代人には分かりにくいものなのだ。非常に刺激的な展開、換言すれば非論理的な話の推移は現代の価値観による判断だ。説経節をライブで聴いた時代の聴き手にとっては、同時代の多数派の考えに基づく自然なものだったのだろう。

 理不尽にして大胆な、それでいてかなり図式的な考え方は当時の人々の思想を考える材料になる。私はいまは素晴らしく過去の価値観は間違っていたとか、未発達だったとかいう判断を避けたいと思う。当時の価値観と現在の価値観どちらが優れているのかなど軽々に言えない。古典研究者の概念設定として、芸能には自分にはできないカッコ付きの理想が語られているのだ。

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