小説を教えることの意味

 現在の高校の学習要領では近代以降の文学作品を学ぶ時間がかつてと比較して少なくなっている。高校1年生が以前学んでいた国語総合は、教科書の大半が現代文編と古典編に分かれており、現代文の中に文学的な文章も収められていた。ところが、現在の現代の国語は評論文ばかりが収められており、小説や随筆、詩歌は言語文化という古文漢文が中心の教科書に収められている。

 現場としては古典の方が時間がかかり、成績もすぐに伸びる傾向にあるから、古典の時間を削って小説を読もうという方針は取りにくい。だから、羅生門とか山月記といった定番に触れることなく卒業してしまう生徒が増えているのである。とても残念なことだ。

 小説など読むより論理的な思考を高める方がいいというのがカリキュラム設定者の考えだろう。ただ、この方面に関しては急速に発展している人工知能ができることだ。それを操るためにはより高度なロジカルシンキングが必要なのは事実だ。でも、だからといって一意に定義できない文学的文章を切り捨てるのは危険である。書かれていることを額面通りにしか受け取れない人に未来はあるのだろうか。新しい世界を創造する力はあるのだろうか。

 小説のテーマは多くの場合明示されず、何を読み取るのかは読者の環境や経験に影響を受ける。ならばまったく自由な読みが可能かといえばそれは違う。あくまで作者が設計した世界の中で、登場人物たちの行動を把握しなくてはならない。高校の国語で問えるのはここまでであるが、そもそもそういった世界観の把握自体が小説を読み慣れていなければできないのだ。

 現場の教員はこの危うさに気づいている。行間を読む能力はやはり大切でこれが欠落すると人格形成上大きな損害が起きる。多くの国語の教員がそう考えているのを反映したのか、教科書会社は現代の国語の中に資料扱いという言い訳をつけて小説などを組み込む改定を行っている。東大が小説の問題を出し始めたのも何かのメッセージではないかと考えてしまう。

 文学を教えることの意味は人工知能がリードする世界にあってますます増していると言いたい。

小説を教えることの意味” への2件のフィードバック

  1. AI時代に突入の今、一筋の光をくれたマドモアゼル愛さんの動画です。
    人間らしく生きられるのかも、、、と希望を持ちました。

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