古典文学の現代語訳をやってみようと考えている。高校で教える逐語訳でもなく、学者の訳す正確さ至上主義でもなく、作家の恣意的な訳でもないものを追求してみたい。とはいえ、結局は自分の基準によるものでそれが一番というものではない。
私は研究者時代と教員時代とで古典文学の扱い方を大きく変えた。前者は人とは異なる解釈の可能性を探ったが、後者は誰かが決めた解釈の範囲内に収まるように個性を矯めて時の多数派に属することを求めた。そしてその後者の時間の方が長くなってしまったので、文学作品がまるで大学入試の問題文のようにしか読めなくなってしまった。
でも、それは文学の読み方は狭める行為である。古典はいろいろな解釈に耐えていまに至っている。いつていさの解釈だけで評価されたならば、もう古典文学の生命力は消えかけているとも言える。だから、敢えて自分の読みを残すことには意味がある。いわゆる名曲がさまざまな指揮者、演奏者によって演じられても価値が失せないように。
今の仕事もあと少し。そろそろやりたいことを始めていきたい。このサイトにも少しずつ掲載するつもりだ。お暇な方はご覧いだければ幸甚である。
