同じ風景を見てもそこから何を感知するのかは個人差がある。まったく同じ対象から感じ取るものは違うのだ。このことを多くの人は感覚的には知りながら、実際には思い違いしている気がする。
事実なり現象なりそういう具象的なものは絶対的なものと考えられやすい。でも、ある現実をどのように解釈するのかは個人差がある。この事実を私たちはしばしば忘れる。個人の間の争いはまさにここを源泉とする。それが集団の、国家の、イデオロギー間の格差として現出することになる。
ただ、以前よりもこうした問題は分かりやすくなった。私が子どもの頃は自分の属する集団の秩序が絶対化され、それに従わないものを排除することは当然のことと考えられていた。常識という黄金ワードがすべてに優先するかのような錯覚をしていたのである。それが、もしかしたら自分たちの思い込みに過ぎないという相対化がなされたのが現代の高度情報社会の成果だと言える。
これは良いことのように思えるが、実はそんなに単純ではない。自分の信じる基準が実は相対的なものであり、物差しとして役に立たないかもしれないという疑念は、自らの立ち位置を極めて曖昧にしてしまったのである。あなたの感想でしよ、と言われると尻込みしてしまう自分が出来してしまったのである。
物差しを失った人間にとって、頼みの綱になるのは何か。多くの人にとって、それは既成の物差しをわが物にすることだろう。そのときにその尺度に対する批判精神が働けばよいのだが、大抵の場合、無批判に受容されてしまう。世の中がそんなふうに動いているのだから、私もそれに従うべきなのだと。
するとその先にあるのは時勢に流される意志なき個人だ。自分にも自集団にも責任を取らない人間たちの結束なき群衆が幅をきかすことになる。それを自由と呼ぶのか無秩序と呼ぶのかは立場によって分岐するが、いずれにしても御しがたい事態に至ることは間違いない。