感動のツボ

 最近、感動のツボが変わってきている気がしている。凝りに凝った仕掛けよりも、純粋に当事者の人間性が垣間見えることが感動の種となっている。作り込み過ぎた仕掛けはそれが人工知能の作った精巧なフェイクであつても感情移入できない。

 私自身のことしか言えないが、おそらく大抵の人たちにとってもこれは当てはまるはずだ。どんなに上手く作ったストーリーも、実話に劣ることがある。創作者はこのことを意識して、創作を限りなく実際のことのように装う。

 最近はかつてディープフェイクと言われていたものが簡単にできるようになっている。作られた偽物が氾濫するようになると、人々が求めるのは多少辻褄が合わなくても人間らしさがあるものに惹かれるようになる。そこにはさまざまな矛盾があり、辻褄が合わないこともある。それを含めてリアルな実感を覚えるのである。

 先日、人工知能に一定の設定を指定してシナリオを書くように指示してみた。数分の間にかなり凝ったストーリーを作り、体裁も整っていた。内容も一見するとよくできていて驚いた。そこに足りないのを敢えてあげるとすれば、意外性ということだと思う。論理の飛躍を意図して行うということは人工知能には今のところ苦手なようだ。

 何に私たちは感動するのかを詳しく研究することで人間とはどのようなものなのかが分かるのかもしれない。

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