何に注目するのかは人によって異なる

 私たちには都合の良いところだけを見るという能力がある。私たちの眼前に広がるのはさまざまなバリエーションの一つに過ぎないのに、ある側面だけをフォーカスしてその優れた面を中心にして評価の対象にする。美女美男というのが典型的で、美しさという極めて流動的な基準をその場で設定して、あたかもそれが絶対的基準であるかのように論う。美意識というのが普遍的なように見えて実はかなり流行に影響されることはいろいろな歴史的な知見から伺うことができる。

 逆に他者にとってはどうでも良いことに悩んだり、劣等感を持つこともある。他の人にはほとんど気がつかないし、気づいても決して非難の対象とはなり得ないものに、異常に執着して動けなくなることがある。髪型の一部が少し崩れているとか、よく見ないと見つけられないほどの服のシミを気にしたりとか、自他の関心度の格差が大きい場合はこの種の問題につきあたる。気になっているのは自分だけであり、他者にとってはどうでもよいこと、というより思慮の枠組みにも入らないことがある。それでも本人にとっては一大事であり、それを乗り越えなくては何もできない。

 私たちの価値観というものが、実はかなり流動的であり、様々な変容をすることに気づくことが最近はとても増えている。でも、そうはいっても細かいこだわりからは解放されることはなく、相変わらず他者にとってはどうでもいいことに悩み、他人の良いところばかりに注目して尊敬したり、逆に劣等感を覚えたりする。その反対に対極から見ればそれほど変わらない他者に対して非難したり差別したりするもの一続きの現象と言えるのかもしれない。

 社会的な動物である人間にとって共時的な価値観に縛られることは仕方がない。他者のふるまいは羨ましいし、逆に疎ましくも憎らしくもある。勝手に定めた価値の物差しのどの位置にあるのか。自分と他者とを勝手にプロットして一喜一憂するのである。インターネットによる高度情報化社会ではそれがネットを通しての空想、妄想に肥大している。物事の良しあし、美醜、価値の有無といったものが、あたかも同時代人に共有されているかのような錯覚をしてしまうのだ。落ち着いて周囲を見れば、だれにでも共通の価値観などほんのわずかしかない。

 何に注目するのかは人によって異なる。注目した対象をどのように扱うのかも人によって違う。例えば日本人なら同じ価値観を共有しているというのはザルの目を粗くすればその通りだが、少しだけ細かくすると結果は全く違う。無理やり一緒だと思い連帯感を結ぶのは場面によっては大事だが、大抵の場合は息苦しさを生み出す。個々人の興味・関心、好き嫌いの好みなど、非常に複雑なグラデーションになっていることを忘れてはならない。

  

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