強ければいいというものでもない

 合理的なのと現実的なのは違う。自らが築いた理と、他の誰かが築いた理が異なる場合はさまざまな問題が生じる。ルールメーカーが誰なのかによって世界の状況が変わってしまう。

 柔道は世界的なスポーツになった時点で別次元に移行した。もともと体重別の概念はなく、柔よく剛を制すの理念のもとに行われていた。だから身体の大きさの違いを勝敗の言い訳にはしなかったし、小兵が大柄の相手を倒すことに理想を感じた。

 柔道がオリンピック種目になった時点で、身体的公平性が重視され、一本勝ちは勝ち方の一種になり、有効なり効果といった部分点で勝負することになった。点数の累積で勝敗が決まるのはレスリングなどと同じで、行動の数値化が勝敗の尺度となった。

日本の伝統的な勝敗観は少し違う。累積した点数の差よりは、どのように戦ったのかという質的な差違、あるいは不十分な条件の中でも戦い続けた態度なり意識が評価の対象となる。巨万の富で有能な選手を集めたチームより、独自の努力によりそれらの強敵と戦うチームの方が高評価を得るのはかようなメカニズムによる。うまく勝つのではなく、きれいに勝つことに関心があるのだ。

 だから強ければいいという訳でない。どのように戦い、どんなドラマが展開され、何が起きたのか。日本のスポーツの伝統的な観衆はそこを期待している。

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