終末を意識する力

あまり芳しい話ではないが、ものごとには終わりがあるという意識が持てることは大事だと思う。有限の生を生きているという実感は意外にも持つことが難しい。今日の次に明日があり、その次もまた同じという単純な方程式を想起してしまいがちだ。

実際には今日の次に明日がある保証はない。何らかの事情で自分の生命が終わるかもしれないし、自分だけ生きていても自分を包摂する社会でいかに生き残るかは別の問題になる。まさに世界は移り変わるものであり、この変化を止めることは誰にもできない。

 終末を意識できることはメタ認知の才能のあることを示すものであり、評価すべきものなのだ。それがいつのまにか妄想なり、老害なり、不確実な言葉で非難するものがでてきたのには残念と言わざるを得ない。この時点で未来を見通す可能性を否定してしまっては何も起きない。

 自分は終わりかもしれないけれど、きっと後継者が何とかしてくれる。そういう時間認識と楽天的な他者観の末に私はいる。そのことをいつも忘れてはならない。

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