知識を詰め込んで何になるという話は昔からあった。社会に出てから使うことがない知識で人間を秤にかけるのはおかしいというものだ。いま、ネットでなんでも検索できる(ような気がする)時代となり、学校で学ぶ知識は意味があるのかという問いが立て直されている。
この疑問には考えるべきことがいくつかある。まずは知識の多さがその人の価値と当価値になっていたことは今までもなかったといえる。博覧強記は一種のあこがれであるが、それが人間の価値かといえばそれは違うといえるだろう。知識の量ではなく、それを生活にどれだけ使うことができるのかという運用力の方が実は大切だ。
人間の記憶力には限界があり、何かに記録しなければどんどんなくなってしまう。それをとどめたのが文字であり、その集まりの文章である。紙面が発明された後は、記憶の蓄積量が飛躍的に増えた。巻子本から冊子へと変化し、印刷技術が発達すると小さな紙面に大量の情報が載せられるようになり、しかも大量のコピーができた。それがデジタル化したことでさらに飛躍的な情報量が蓄積され、高速の検索技術によって情報を取り出すことははるかに容易になった。だから、今となっては単に情報を記憶するだけならば機械に任せればいいということになる。好きな時に好きな場所で情報を取り出すことができる。そんな錯覚を持てるのが現代の情報環境だ。
最初の話題に戻る。このような情報化社会においていちいち学校で学ぶ価値はあるのかということだ。過激な意見を持つ人は学校に行く価値などないという人もいる。知識や情報はインターネットから取り出せばいいというのだ。おそらく人の気を惹くためのレトリックだろうが、本当にそう信じているのならその人の将来が不安になる。
情報をインターネットから引き出すための基準はどこにあるのだろう。おそらくばらばらのパズルのピースを個別で取り出しても組み合わせることは難しい。どんな絵が描かれているのかが予め分かっているか、その類型的なものを知っていればかなりのヒントになる。猫の写真のパズルだとすれば、猫がどのようなものなのか、どんな特徴があるのかを知っていることがピースを取り上げるのに大いに役立つ。学校で学ぶのはそうしたヒントになり得る前例を知ることにあるのだろう。
人間の思考が言葉によって成り立っている以上、言葉の技能を高めることはその人の思考を向上することにつながる。言葉は他人と共有するものであり、個人の専有物ではない。インターネット上に広がる様々な情報も言葉によって表現される。その言葉の力を磨くのも学校の役割だ。ネットを活用するのには機械のスイッチの入れ方やソフトの立ち上げ方を知るだけではなく、情報を読み取る力が欠かせない。
言葉の深い運用力、概念構成の在り方、様々な知識の基本的な型のようなもの、過去の歴史、研究史の把握などがあって知識は自分のものになる。学校に行くことは意味があると私は確信する。そこで習得する知識の量や質に関しては見直さなくてならないのも事実である。ただ、学校に行かなくても情報検索すればすべて理解できるというのは大きな錯覚であることは確認しておかなくてはならない。最近、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちが学校教育不要論を言う人が多い。そういう人の多くは高学歴で自らは学校教育の恩恵を受けているのに、若者にネットさえできればいいといっているのは無責任であり、無教養人を制御しようとする陰謀ではないかと思えるほどだ。そこまでの目的もない脳だろうが。現在の学校教育にはさまざまな問題はあるが、学校自体が無意味なのではなく、運用の仕方を改善すべきものなのだ。