大学受験と学びの本質を考える

 大学入試も大詰めである。私は大学受験に関しては結果的にはうまくいった。第一志望は地方の国立大学だった。運よく合格できたが、結局都内の私立大学に進んだ。親の希望もあったが、要するに一人暮らしをする覚悟が足りなかったのだろう。

 受験生のときは自分にとっては目標志向型の生活ができていた。参考書を何度も読み、自分なりにストーリーを作り覚えた。インプット重視の受験勉強には対応できたのかもしれない。高校2年生まではふるわなかった成績が受験というフレームの中ではまずまずの出来だったのだ。結果として大学に滑り込むことができた。いまから思うに受験とはいかに大学に行きたいかと思う志向性と、それを実現するために努力を続ける愚直さの合わせ技で決まる。持って生まれた賢さがある人には理解できないだろうが、凡人は自己暗示と単純な作業の継続力が大切だ。

 受験生の頃はそれがうまくはまった。しかし、その後の学生生活はそういう受信型な学習ではどうにもならないことを知る。高校までの授業のように大学進学という目標があって、それに対してすべての教師が表面上は様々なあるが結局同じ答えを導くように教えていく。対して大学の教授陣にはその意識はなく、自分の専門領域をひたすら開陳する。特に私が進んだ文学部ではそれが顕著だ。世の中の役に立つ学問は偽物だと言い切る先生もいた。勝手に講義が進み、教員によって結論に齟齬があることが普通にあった。その学派ではそうかもしれないが、実は間違っているなどと。

 大学生になってからは自分自身に目的意識がないとうまくいかない。当時の学生が講義にあまり出なかったのは怠惰だけが理由ではない。与えらた情報をとにかく記憶し、試験という決められた時間内で要領よく吐き出すことしか教えられてこなかった人たち、特にその方面では素晴らしい才能を発揮してきた人たちの多くは大学進学以外の目的意識がなかったのである。ある程度の大学を卒業すればそこそこの就職ができると信じられていた時代である。入学時点でほとんどの目標が達成され、あとは落第せずに卒業すればいい。持ち前の要領よさだけが発揮され、学問への傾倒は期待できない。

 それでは高校までの受信型学習は無意味なのかといえばもちろんそうではない。物事を考える前提となる知識や技能がなければその先の展開は期待できない。漢字の読み書きができ、語彙力があり、基本的な読解力をもち、方程式が解け、幾何の問題を解く作法を知り、過不足なく証明を書く技能は成績がどうであれ、実は現在の行動の根本にある。理科・社会で学んだ知識は丸暗記だったが、それが現実と照合したときに生きることがある。英語は話せなくとも外国語を知ることで自国語の特徴に気づく。実際に英語で仕事をする人は中等教育で受けた授業が基本になっているはずだ。

 受験生の頃は大学に進学する手段としてしか勉強を考えていなかったが、今になって考えると人生を豊かにし、他者そして社会を知るきっかけを得ていたことが分かる。いま教える側の立場になって、職業上の任務として大学合格者を多数出すという不動の命題はやはりある。いかに効率よく最短距離で成績をあげ、合格通知を生徒に受け取らせるのか。それが目的だと考えている同業者は多い。しかし、従前の自分の経験に照らすと、それに加えて学問をする目的も少しずつ考えさせた方がいい。ときに生徒を混乱させるかもしれないが、なぜ学ぶのかを考えさせた方が結局その後の彼らの人生に資することになる。

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