ある土地に生まれ、その地にどれくらい執着するのかは個人差がある。生まれただけのことであると割り切れるむきは特に気にしない。そもそもこの世に生を受けるか否かは本人の意志を越えており、ましてその土地がどこかなど考慮外である。
それでも実感として故郷に対する思いの強さは揺るぎない。なぜ生誕地に拘るのか、はっきりとはわからない。郷土愛という言葉で総括されてもなぜそれがあるのか説明できる人は少ない。自分が生まれたというだけでその地が他より優れていると考えることは信仰のようなものだろう。
そうは言っても、やはり故郷を愛する気持ちは抑え難い。理屈よりは感性の問題である。故郷は遠き彼方にて思うものという言葉はそうならざる状況に追い込まれた人の持つ感慨である。古人の残した詩句にそれを感じることができる。
ところで、故郷の範囲をどう考えるのか。それが大問題であろう。かつては村を、そして国、今で言う都道府県をその単位と考えた。いわゆるウチと呼べる範囲はそのようなものだったはずだ。ウチの街では、ウチの県ではと言える。国際社会においてはウチの国と言えるかというと、この感覚はやや無理がある。我が国という類似表現があるが、ウチほどの密着性はない。
さらにウチのアジアとかウチの地球というのはますます無理だ。SFの中の表現ならばいざ知らず、非現実的な表現である。こうしたことから考えると郷土愛というときの郷土の範囲はある程度限られている。
郷土を愛することそれ自体は素晴らしいことだが、この愛には他者の郷土をも尊重する態度が含まれていなくてはなるまい。それがなければ、自己中心的な感情となってしまう。結果的に巡り巡って自分の里をも傷つける。他者にとって自分もまた他者なのだから。
郷土愛を育てる大切さを訴えるときに、まず他者の郷土も尊重することと、その先に大切にする場所の範囲を広げることが肝要だ。
