絵の評価

 ピカソやミロの絵をどう評価するのかはその人の価値観に大きく影響する。例えピカソが本当は写実的な絵画を描くことが出来る画家であると知っていても、それを作品の鑑賞に持ち込むことは結局は個人の価値観による。

 ところが、実際の評価基準は少し異なる。多くの人々の絵画の評価は自分ではなく、他者の評価によるところが大きい。評価史のようなものが前提としてあり、その時代の評価基準に従って絵画を鑑賞する。キュビスムならまだいい、容易に解釈できない抽象画となると、判断すらできないが、美術史の文脈でその価値を説明されるといいもののように感じてしまう。

 絵と向き合い、自分なりの見方をすればいい。そういうのは簡単だ。しかし、話はそう単純ではない。そもそも絵と向き合うということ自体が結構難しい。美術館に並べられた絵をタイトルや画家の名前が書かれた表示から見る人の多くは絵に向き合っていない可能性がある。

 ことは絵画鑑賞だけではない。対象を先入観抜きで見ることができる人は少ない。私の場合はどうしても能書きから先に見てしまう。物理的なものもあれば抽象的なものもある。ステレオタイプのものの見方をして満足することが多い。

 虚心に見るとことは意外に難しい。しかし、この経験は時々やらなくてはならないと思う。なんだか分からないが心惹かれる。もしくは説明不可能だが危険な感じがする。そういう経験をすることが、人生を豊かにするのだろう。

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