料理をしなくなったことが知的生活の停滞を招いているというのは極論のようでいて、案外的を射ているのかもしれない。こういう話は日常の雑話の中でしばしば出てくるが、根拠がないのでその場限りの愚痴のような扱いになりがちだ。ただ、先日理科の教員が生徒諸君の実験授業の際の手際の悪さを料理しないことと結び付けて話しているのを側聞して、やはりそうかもしれないと考えたのである。
料理は素材を組み合わせ、手順を踏んで調理していき、無駄なく最短の時間で行わなくてはならない。加えて自分がもっている調理器具や食器、コンロの数などの制約も考慮しなくてはならない。それらを総合したうえで、さらに食事の時間まで間に合わせるという時間的制約も加わる。これらは総合的な企画力が必要ということである。

そしてその成果は味となってすぐに評価の対象になる。どれほどの努力をしようとも、失敗を乗り越えようとも食べる側がうまいと思わなければ成功したとは言えない。すぐにフィードバックがあるのも料理の特徴である。味の基準は個人差がある。提供される側の好みも考えるとなれば、また考慮すべき要素が増える。
いまはコンビニエンスストアにいけば完成した料理はいくらでも買える。万一、それが売り切れていても冷凍食品があり、これらは思った以上に美味だ。かつては添加物とか塩分量とか気になることもあったが、最近の製品はそれらが考慮されているものがある。だから、そういったものでいい。無理して自分で作らなくていいと考えるのは自然の成り行きだろう。
しかし、そうした便利さと引き換えに調理する能力を私たちは失いつつある。先に述べた通り、食卓に提供するまでの総合的な企画力が問われる料理という行為を喪失しかけているといえる。やはり少々不便ではあっても自炊の楽しみは維持すべきなのだろう。料理することがもたらすのは食欲の充足だけではない。
