類型把握

 この話は前にも書いたことがある。でも、少し考えが変わったので書いておくことにする。私が物事を把握するとき、目前の対象をありのままに受け入れているとは言えない。むしろ初めて見るものは何が何だかわからない。

 そこで、それまで自分が経験したこととの照合がなされる。瞬時に行われるから私自身も普段はそのつもりはない。これは誰かに似ているとか、以前見た物の少し変形したものだとか考える。それを持っている言葉に置き換えてようやく把握できる。だから色やサイズ、形状の差異があってもイヌかネコかを区別できる。

 これは言語論の基本だが、この現象を一人の人間の時間的な変遷の中で捉え直すとどういうことになるのか。幼い頃は持っている言葉が少ないため照合できる目印が限られている。だから、本来分類した方がよさそうなものがまとめられていたり、その反対もある。成長とともに言葉を覚えるとともに、その言葉が持っている文化的伝統も身についてくる。すると、水と湯を区別したり、雨の降り方に様々な区別をし、虫や鳥の鳴き声にオノマトペを使うようになる。

 さらにその中で個人的な把握も加わる。過去に起きた印象的な出来事が文化的枠組みを超えて認知に影響を与える。それは言葉すら超越するような身体感覚として突然発生する。

 そのような様々な要素が複合して目の前の物事が認識されている。だから、同じものを見ても条件が変われば別物として感じられるのだろう。類型として把握することは変わらなくても、物差しとその使い方が刻々と変わる中で私は生きているのだ。

類型把握” への1件のフィードバック

  1. ピンバック: awareness

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