多様性を認めるためには

 見逃せないことは息苦しさに直結する。最近、正義を語ろうとするあまりに多様性を蔑ろにすることが増えているように思う。印象で評価された事実が無批判で支持される。それが本当に正しいか否かは考えられず、時々の多数意見で物事が判断されてしまう。

 同調圧力の大きい我が国の国民性は、うまくいけば自律的な社会を形成するが、大抵の場合衆愚に陥りやすい。そうならないために常に教育というサポートが不可欠なのだ。

 しかし、それが最近機能していない気がしてならない。多数意見が必ずしも正しいとは限らないという批判精神を今の教育システムでは伝えにくい。与えられた公式に当てはめて、効率的に正解にたどり着けとしか教えない。だから、同調することへの親和性は高いが、それを検証することは難しい。

 だから、常識人であればあるほど既存の価値観に沿って物事を判断し、逸脱しているものには容赦ない非難を浴びせる。彼らはそれを善行と信じているから、自分が他人を傷つける行ないをしたという自覚はない。自分の価値観に合わないものは劣勢なるものと決めつける。その結果出来するのが自警団に監視された日常である。

 世界は多様であり、価値観も多岐にわたる。それを考えて言動を決めるべきだ。それが今の時代に求められている本当のスキルなのた。

多様性を認めるためには” への1件のフィードバック

  1. 勘違いしている人、騙されいる人が多いですが・・・多様性は、二種類あって、マスコミ(ごみ)、左翼、共産党の言う「多様性は?」▼

    「私の言う事を聞け。お前らの言うことは聞かない」、「私は法律を守らなくても良い。お前らは、私の言う通りにしろ」という、二重基準、ダブルスタンダード(二枚舌)、

    私は嘘(うそ)を言っても構わない「それは?」・・・表現の自由だ。

    大雑把に言えば、こういうことです(大雑把すぎますが)。

    騙されないように、お気をつけ下さい。

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