小さな感動

 私は昔からいろいろな言い訳をしてきた。だからこれもその一つである。ただ、これから私の年齢に達する人たちには聞いていただきたい。老いの繰り言と聞き流していただければそれでいい。

 恥ずかしながら、いま私は小説や脚本を書こうと思っている。しかし、これがなかなか進まない。その原因の一つが感動できないことにある。感性の鈍化と言うのが近いのかもしれない。

 詰まらないことに感動することは若者の特権だ。ただそれがつまらないなどと誰が決めたのだろう。それこそが老いのもたらす弊害だ。感動することはいくらでもあるのに、それを予め過去の経験と照合して類型化してしまう。その結果、目の前にある出来事をそのまま受け取ることなく様々な測定値のもとに数値化してしまうのだ。

 創作にとって必要なのは小さな感動の積み重ねだと私は思う。それがあるからこそいままでにない世界が創れる。それを過去の経験にいちいち照らし合わせてマッピングするのは世の中には測定できないものはないといっているのと近い。

 私が感動できるものの範囲は年々狭まっている気がしてならない。恐らくいまの安定的な境遇が崩されるときがいい機会だと思っている。思春期ならぬ思秋期もしくは思冬期は創作の機会としては意味がある。小さな感動を敢えて過去の出来事と結びつけない。それでいろいろな創作ができそうだ。

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