私たちがものを見るとき、実はその対象をそのまま捉えているわけではなさそうだ。眼の前にあるものを見ながら、実は見ていないということになる。見たままを感じるというのは一種の理想としてある。いわゆる写生の論などはその延長上にある。
しかし、私たちはやはり外界にあるものをそのまま受け入れることはできない。それは私たちには言葉というものがあるからだろう。言葉は外界の現象をあるまとまりで分けて把握する。「いぬ」といえば犬として持っている特定の性質の共通する性質をもとに区分している。それは猫ととは違うものであり、それがあるゆえに私たちは犬と猫を一瞬で見分ける。その区分になっているのは言葉で形成されたものである。言葉を覚えた瞬間から私たちは外界を言葉のフィルターを通して見ることになる。
この様な性質上、言葉が物事の把握に大きく影響を与えていることになる。そしてその言葉とは母語であり、私にとっては日本語だ。日本語が自分の世界を作っていることになる。このブログは海外の方からもアクセスしていただいている。私は日本語でこのブログを書いているが、それは日本人の価値観とか世界観でものを捉えていることになる。日本語が持っている様々な性質を踏まえて私は世界を見ていることになるのである。
ならば、言葉を覚える前の世界に身を置くことはできるだろうか。これはかなり難しい。言葉を覚えてしまったならば獲得以前に遡ることはできない。不可逆なのである。敢えてそれに挑戦するのが前衛芸術の世界なのだろう。生の現実とはどんなものなのか。かなり興味がある。