国連で活躍されていた方のお話を伺う機会があった。いろいろな話題の中で、多様性こそが大切であり、異質であることへの寛容な考え方が求められているというご意見が印象的だった。
紛争当事国や貧困で苦しむ民族に、自分たちの成功体験に基づいた助言をしてもうまくいかない。例えば民主主義や男女平等の理想をすぐに実現させようとしても、旧来の社会制度や生活習慣との乖離が大きすぎればかえって混乱を招き、さらに悪い状況に陥るという。国や地域に応じたやり方があり、それを間違えれば良薬も毒薬と化すのは考えてみれば当たり前だ。
世界には、身の回りには、様々な価値観があり、そのどれが優れているのかを判断するのは難しい。ある状況では絶対の真理と思えても、別の局面ではそうならないことも多い。物理学の世界でさえ、万事に通用する方法はないという。まして形而下の不規則な世界の中でこれこそが真実、正義と言えることは実際はない。その都度この場面では何が最適解なのかを考えるしかない。
この多様な世界は厄介なだけかといえばそうでもないらしい。多様性の中で、次なる策を見つけることが新しい価値観を生み出し、現状を打開する方策を生み出す。生物学の世界で、ある環境に特化した種が絶滅しやすいことは証明されている。常に新種と接触することが次世代へと繋ぐことができる条件なのだ。
多様性を推奨するのは容易い。ただそれには異質なものへの寛容さが裏打ちされていなくてはならない。自分の周囲に習慣も価値観も異なる存在がいたとき、それをどのくらい許せるだろうか。私自身のことを推し量ればかなり覚束ない。排除まではいかなくても、距離を置いたり無視したりしないか。その反省から始めなくてはならない問題なのだろう。