確かに私は

 世の中が何でも数値化できるという幻想をどうして多くの人々が信じているのだろうか。数は大小を顕在化できるので、対象を比較し序列化できる。どちらが優れていて、また劣っているかなどが可視化できるのだ。

 ただ、こうしたものさしの危うさは誰にもすぐ分かる。ある数値が良いからと言ってそれが絶対的に素晴らしいとはいえない。基準が変われば序列など簡単に変わってしまう。ところが、ものさしを設定した人に権力がある場合は厄介だ。そのものさしの中で設定者は絶対に損はしない。そしてそれに従う一般人は見事に序列化され苦楽を味わうのである。

 私たちが優劣を感じているものの大半はこうした権力者が設定したものさしによっている。知らないうちにそのものさしに見合う価値観を強いられ、その枠組みで生活することになる。

 こうした考え方では結果的に自分の生き方を生きられない。他人が設定した尺度に従って、そうかもしれないという感覚で生きる。

 大抵はこれで何とか生きられる。中には幸福に過ごせる人もいるかもしれない。自分を消滅させることに成功すれば、他者の用意したよくできたルールに従う方が遥かにスマートに思える。でも何か違う。

 違和感に気づいてしまえば後戻りは難しい。いつまでも他人の価値観に従ってはいられない。とりあえず独自のやり方を模索する。そしてそれは簡単ではない。しばしば挫折する。それなら既存の価値観に戻ろうかとも考える。

 確かに私はこう考えましたということは意外にも難しい。

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