経験という財産

 私たちが何かを考えたり、行動したりするとき、その裏にこれまで経験した事柄が必ず裏打ちされている。経験の種類が多ければそれが豊かなものになるし、なければぎこちないものになる。私たちは色々な意味で経験を蓄積するべきなのだ。

 経験がなくても知識は増えていく。見たことがないものでも見たつもりになれるし、いったことがない場所についても語ることは可能だ。それらを組み合わせればかなり現実的なものになるし、他に応用もできる。現代人の知識というものの大半はこうした経験に基づかないか、その補強が弱いものだ。これができるからこそ、未知の領域を探求できる。

 でも、やはり根本的な経験のない知識は危ういと思う。平和について語るとき戦争を経験していない私の世代の考えることはやはりどこか薄っぺらい。死を語るときはもっとそうだ。ただ、戦争は経験してはならないし、死は経験すらできない。でも、他人の死について経験することはできる。その経験の積み重ねで自分の死を考えることができるのだ。その意味でも経験を積むことは不可欠だ。

 なんでも検索すれば答えが出たり、検索すら放棄して生成型AIにプロンプトを投げかければそれなりの答えが得られる時代に、やはり経験は欠かせない。何が本当で何が間違っているのか。正解であっても最適解であるのかを判断するのは自分の経験から得られるものしかない。

 ならば、教育の世界では何を求めるべきなのか。正解を採点するだけではない。それに至る思考の段階で、どれだけ経験が利用されたのかを確認し、足りないときはそれを補強する機会を提供するべきなのではないだろうか。

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