国語教育の目的は母語の活用方法を深く教えることにある。漢字や文法、文章読解、作文、古典の基本的な読解などやるべきことはいくつもあるが、もう一つ大切なのが学び方を教えることなのだろう。学習という行動の中での言葉の使い方を教えるということである。
断片的な知識を学んでも直近の考査で得点できてもすぐに忘れてしまう。これは若者の特権能力である短期記憶を使っているからで、長続きはしない。そもそも長くその知識を利用しようとする意識がないのだ。これは学習者の怠慢だけではない。教える方がそのような問い方ばかりしているからだ。
長く残る記憶のほとんどは何らかのエピソードと結びついている。子どもの頃に覚えた言葉を忘れないのは、それに纏わる思い出とともに覚えているからだろう。この記憶法を国語教育で行うべきなのだ。
現場でこの話をすると同僚からは同意された後で、ではどうやるのと問われることになる。生徒諸君にはそんな回りくどいことをすると覚える量が増えるだけだと言われる。彼らは短期記憶の王者だから、丸暗記の方が手っ取り早いのだ。そして王者の地位はすぐに奪われることになる。
この記憶法はやはり母語の活用方法の一つとして教えるべきだろう。断片的記憶はもはや機械に代替される領域だ。大事なのは知識を関連づけ、自分の言葉として語れるようにすることである。これを国語の時間で鍛錬するとすれば、学んだことを素に自分の言葉で他者に説明できる力を身に着けさせることだ。教員が説明したことをそのまま鵜呑みにして試験に書けば正解になるというのは止めなくてはならない。
そのためには考え発表する機会を増やすことにシフトしなければなるまい。基本的な事項を疎かにしないよう小テストを活用しつつデジタルデバイスもときに使いながら国語の運用力を伸ばす試みをしていこうと考えている。