知音とは親友のことである。中国の故事によれば琴の名手が弾く演奏の意味や込められた心情を見事に言い当てる者がいた。よき鑑賞者であったことになる。この人物が死ぬと、琴の名手は二度と演奏をしなかったというのがこの語の背景にある。
親友とはなにかといえば、自分の心をこのように理解してくれる人なのだろう。利権や一時期の感情で結ばれたわけではなく、もっと深い相互理解に基づくものなのかもしれない。このレベルの友人となると一人いるかいないかの話になる。
ソーシャルメディアでいう友達はこれとは全く異なる。相手のことなど何も知りはしないが、とにかく関係性を持っていたいと刹那的に思えば友達になる。友達になるのは1回のクリックで、友達をやめるのも同じ行動で可能だ。こういうのが実人生のいわばもどきであり、現実とは全く異なるものであると認識できる世代はまだいい。もしかしたら、私の世代も含めて、この軽薄な友人関係が人生の価値のように考えている人が増えているのではないかと心配する。
知音は人生の中で会えることはもしかしたらないかもしれない。でも、そういう存在を求めることや、自身が誰かの知音になるときがくることは考えておくべきではないだろうか。
