
子どものころ軍艦のプラモデルを組み立てるのが好きだった。ウォーターラインズという喫水線以上の部分でできているモデルで旧日本海軍の戦艦や巡洋艦、駆逐艦をいくつも作った。いまではなぜそんなことに小遣いを費やしたのかと思うこともある。
昭和の代表的なアニメの宇宙戦艦ヤマトも、その前の特撮ものに出てくるさまざまな「艦隊」も子供の時はあこがれの的であった。絵にかいたりプラモデルがあれば作り、高くて買えないものは紙や木でまがい物を作った。それが最終的に誰かを殺すための兵器であるという事実を格好よさは簡単に跳躍した。
幸いにも私が生まれてから軍事的な戦争はなく、軍艦の出撃することもない。ウクライナ戦争でロシアの巡洋艦モスクワが戦没したというニュースを聞いてからまだ軍艦というものが実際に機能しているということを再確認するほどである。
軍艦は人間の負の部分の塊のような気がしてならない。何のために巨大な殺人兵器を作らなくてはならないのか。それが人間の限界を見事に具現化してしまっている気がするからだ。戦わなくては自分を維持できないという残念な現実からそんなに簡単に解脱できることはないと思い知らされるのだ。
横須賀や横浜で自衛艦や護衛艦をみると昔のように素直に興奮できない。もちろんその艦船に乗って最前線で国の安全のために命を懸けている自衛官や海上保安官の皆さんには心から感謝を申し上げたい。その心身にかかる圧力に耐えて責務を果たしていることに敬意を表したい。
それはそれとしてやはり兵器を積んだ巨大な武器から私たちが解放されていないということに悲しさを感じてしまう。正直に言うと今でも護衛艦はかっこよく感じるが、その中にはかなりの哀調が含まれる。
