
最近、教育の世界で繰り返されるは知識の単なる伝達では意味がない、教えるべきことは個々の情報ではなく、その扱い方だと。つまり、考えることそれ自体の方法を教えるべきだということだ。
メタ学習の方法を教えることは実は簡単ではない。教員にとって最適な学習方法だと思っても、それがすべての人に適合するとは限らないからだ。できれば生徒一人ひとりの気質やコンピテンシーにあった方法を提案するのがいい。それがいまの教育システムでは難しい。
難しいからやらないというといつまでも進まない。あえて完全な理想型は求めず、できることから始めたい。考えられるのは小テストなどで誤答の傾向を知り、それに応じたやり方を提案することだ。幸い答案の分析などはコンピューター解析ができようになりつつある。
国語の教員なので古典の学習を例に取る。文法の問題を間違えることが多い生徒は、基本的な約束が曖昧な可能性がある。主語を判別できない生徒は、述語との対応を軽く見ている可能性がある。それをある程度指摘してそれに対処するための方法を示すことが大切だ。
そこで私のような世代はプリント課題を与えて補講をしてと考えるのだが、そんな余裕は教員にはない。手持ちの問題集のどの部分を学べばいいのかを示し、それができたかを確認するだけでも効果があるのではないか。やり方は示すが、何をやるかは生徒に任せた方がいい。その方がお互い幸せだろう。
この方法で大切なのは繰り返し行うことだ。それを行うことで次第に学習習慣はできていくのだろう。もちろん何を言っても無視されることもあるだろうが。
そして、この方法の大前提として学ぶことは一本道ではないということを強調しておく必要はある。すぐに理解してしまうこともあれば、なかなかうまくいかないこともある。それは個性であり、持ち味でもある。速く点数が取れればいいというわけでもない。短期記憶の処理で終わってしまったり、その分野だけの知識として応用ができないのなら将来的な学習の意味は薄い。ゆっくりしっかり学んでいこうと繰り返したい。
学び方を教えることは中等教育の教員の責務ではないか。新学期はこれをもう一度思い出したい。
