
古典を教えてきて気づくことはいくらでもある。誰でも知っていることに「うつくし」という語の意味の変化がある。高校で学んだことを思い出していただきたい。
『枕草子』に「うつくしきもの」という段がある。清少納言が自身の価値観でうつくしきものを列挙した章段である。そこにあるのは瓜に描いた子どもの顔、鳴き真似すると寄ってくる雀、這い這いしながら近づいてくる幼児が途中でゴミを見つけて大人に見せた姿、など子どもや小さなものへの愛情を示すものである。現代語ではかわいいというべきことばだ。
古典語の美しいは「きよらなり」や「うるはし」が担当する。前者は清純のイメージがあるのに対し、後者は秀麗の感が強い。そしてどうも清らかさのほうが評価は上であったようだ。
これもよく言われることだが日本人は完成された美よりも未熟、未完成の状態の方を好むという。例えば日本でアイドルと呼ばれるジャンルで成功するためには理知的だと思われてはいけない。たとえ世情に通じていても、初心なふりを通す必要がある。海外の同様の立ち位置の存在には完成された歌唱やダンス、語学力が要求されているのと対照的だ。日本人ももっと歌やダンスを鍛えなくてはという人は多いがそのとおりにすれば少なくともアイドルではなくなる。場合によっては売れなくなってしまうかもしれない。
かわいいは国際語になっているという人もいる。どこか子どものようなデザインはかえってユニークなのであり、そこに価値が生じている。もしかしたら「うつくしきもの」を嘉する考えが隠れているのかもしれない。
高校野球がこれほど注目されるのも、宝塚歌劇団はプロの演劇集団なのに、俳優たちは生徒の意識があり卒業があるのも、こうした価値観に関係があるのかもしれない。
