感受性

 残念ながらかつてのような感性は失われている気がする。これはある程度は仕方がない。しかし、歳長けてもできる方法もあるのではないか。

 箸が転んでもおかしいという譬えがある。箸でなくても鉛筆でもなんでもいい。日常とは異なる風景が意図せず起きたことに対して喜怒哀楽を感じることは誰にでもあるが、若い頃は概してそのハードルが低い。素直に状況に対応できるからだろう。

いつもと違う1日にする

 ある程度歳を重ねると、経験を類型化して把握するようになる。今起きていることを過去の出来事の変型として捉えそれ以上の反応はしない。だから感情的な反応は起こりにくい。前に見たことしたことと考えてしまう。これは生きるための知恵のようなものだ。いちいち心を震わせていたら消耗してしまう。

 感性の繊細さはこの生きる知恵とトレード・オフの関係にあるのかもしれない。子どものような感性には憧れるがまったく同じになったとしたら気が変になりそうな気がする。世間はあまりにも複雑であり、いちいち相手はしていられない。鈍くなるのは大人として世の中に折り合いをつけているということなのだ。

 それでも、ときには何かに囚われず世界を見てみたい。私の場合、少しだけアルコールを飲むとそんな気分を味わえる。しかし、恐らくそれは幻覚だろう。極めて有効期限が短く、大抵の場合は飲みすぎて何もできなくなる。言葉は悪いがこれはある種の薬物を投与するのと同じで害の方が多そうだ。

 ではどうすればいいのだろうか。一つには瞑想がある。ただ、良い方法を知らない。大がかりの物がいるものならば続かないし、やる気にならない。深呼吸や座禅もどきのようなものは時々やる。それなりの効果はあるがこれも長続きしない。大掛かりでも簡単すぎてもだめなようだ。

 それよりは、意図的にルーティンを壊すことの方がいいのかもしれない。いつもと別の見方をするように行動を変えるのだ。やり方を変えたり、行き方を変える。非効率になることは間違いないが目的は生産性ではない。新しい発見ができればそれでよしだ。

 習慣を変えるのは実はとても難しい。私たちの行動や思考の多くは反復される日常の中で形成されている。それを逸脱することは言動の基準を失うことである。でもこれを行うことは大切なのだ。

 感受性を取り戻し、磨くことは新鮮な体験に裏打ちされる。この体験の方を自ら演出していくことが感性の涵養に繋がる。

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