
世間には一見正義に見えながら、実は多大な損害をもたらすことはいくらでもある。そもそも幸福の追求を善として発展してきた近代社会がさまざまな問題を発生している。環境問題はそのもっとも顕在化したものだ。それだけではない。私たちは「正しいけれど間違っている」という事実を見つけ、再考する必要がある。
ただその逆もあるのではないか。一見間違っているかのように見えて、実は多くの利益をもたらし、人々を幸福に導くというものもあるかもしれない。これまでの考えでは不正解とされてきたものが、実は改善策であったということもあるはずなのだ。こうした現状の打開には、多くの失敗がつきものだが、それを許容する考え方が必要なのだろう。間違いだ、非効率だ、生産性が低いなどと即断せずに、可能性のあるものは追求するという余裕がいる。結果としてやはりだめということも想定しつつも、やってみることに意味があるのではないか。
教員としてこの件に寄与できるとしたら、生徒の失敗を失敗と決めつけないことだろう。教えるのは現今の多数派の意見に過ぎない。最適解は実は別のところにあり、まだ発見されていないだけなのかもしれないという考え方を持ち続けることが必要であると感じている。
それをどのように現場で実現するのか。それを考えていきたい。限られた時間内で情報伝達をし、それが確実に行われたのかをテストによって確認するというシステムの中ではなかなか難しい。それを止めることは間違いだろう。知識伝達は最低限の責務だ。その上をいく方法を模索していく必要を感じている。いつの発達段階から可能なのかは考察する必要があるが、現状の知識の伝達と、未来の可能性という局面の違いを生徒にも明確に意識させ、個別の評価方法を考える必要がある。
