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見ている風景の価値

 錯視という現象は人間の脳の構造的な問題に関係するらしい。どのようにものを見ているのかは、脳のフィルターを通して捉えられ、必ずしも現実の姿を映しているとは限らないというのだ。

 極端な錯視の例は理解可能なのだが、実はそのように見えていただけで、実は違っていたのだといった軽微な錯覚は多くは意識に上がらない。だからそれが虚像なのか真の姿なのかという判断にすら及ばないのだ。

 自分の目を信じろというときは、さまざまなバイアスを織り込みながらもその経験を尊重せよということであり、決して真実至上主義という訳ではないのだ。

 極端なことをいえば、人は同じものを見ることはできないのかもしれない。実は違って見えているのものをこれはこう見えるねと示し合わせる手続きをたびたび行うことで同じものであるとみなしているのに過ぎないのかもしれない。

 何をどのように見ているのか。それは実はとても不可解で、繊細かつ重要な問題である。

漫画になった自分

 自分の写真をイラストに変えるというサービスを使ってみた。人工知能によってあっという間にできる。自分を漫画にすると特徴が際立ち、さらに美化されてしまう。こんなふうではないがこんなふうならいいという感じになる。

 おそらく自分が見ている風景も脳内でこのように変換されているのだろう。都合よく見たいものを見て、それ以外を見逃している。何を捉え、何を除外しているのかを考えると、世界はまったく違うものになりそうだ。

前景と後景と

 実際にはそんなに単純ではないが、例えば現実を舞台に例えるとすっきりすることがある。物事には間近に起きていることと、その背後で起きていることがある。それらは根本的には関連しているのだが、敢えて分けて考えるといいことがある。

 私たちは間近で起きていることに気を取られやすい。個々の現象は複雑でそれに対応するだけで日々の暮らしの殆どが終わる。うまく対応できたときはよいが、それができないときは懊悩激しく神経をすり減らす。

 でも少し遠くを見ると日常の困難が些事の様に見えてくることがある。近視眼的な考えを超越できれば新たな可能性が生まれる。

 舞台に幕を引いて前景と後景の世界を別視点で見せる技法がある。中には紗幕を使って半透明にし、非日常空間を創出することもしばしば見られる手法だ。実人生ではそんなに意図的に視線の変更はできない。だから、意識してレンズの焦点を遠景に向けてみることも大事だと思う。