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弱みなのか

 困った人がいたら手を差し伸べたくなるのは人間の弱みなのか。考えてみるといろいろな答えが見つかります。

 自分の周囲に何らかの問題を抱えている人がいると認識した場合、私たちにはなんとかしてあげたいという気持ちが起きることがあります。多くの場合、その気持ちを実行できず、できなかったことに様々な理由をつけます。ただ惻隠の情が起きること自体に意味があるのではないでしょうか。なぜそのような感情が立ち上がるのか。

 識者の説明でこれは人間の歴史と関係するという言説に触れたことがあります。集団で生き残る選択をした人類にとっては集団の維持が死活問題であり、その記憶がいまも作用するのだとか。証明不可能な意見ですが確かにそういう面もありそうです。

 一方で自己本位で利益を独占しようとする営みを私たちはし続けているのも確かです。歴史で学ぶ社会変化の主要因は富や権力の集中が影響しています。利己的な動機が格差を生み出し、混乱のもとになっています。

 相反する言動を繰り返しながら私たちは生きているのかもしれません。緊急事態では同情心が発動し、平時は利己的になることを考えるに、私たちは集団の生き物という意識を忘れたときに自己中心的になるといえるのかもしれません。これは人の弱みなのか。それとも強さなのか。考えていきたいです。

考える基準

 自由に考えてもいいと言われても私は困惑するばかりです。自由に考えるというのは無から何かを生み出すくらい難しい。

 何かを考える基準として例えば宗教的な知の枠組みとか哲学者の言葉とか、歴史的事実とかは確かに役に立ちます。さらに身近な人たちの言葉も大きく影響しているのは事実です。

 なんらかの基となる言説があって私たちは自分の考えをまとめることができる。まとめるまでは無数の試行錯誤の繰り返しです。それをある言葉にまとめあげたときに、さらなる命名前の体験に挑戦できるようになるのでしょう。

セルフィ

 携帯電話の普及で新たに生まれた習慣といえば自撮りであると思います。かつては少し高価なカメラが一家に1台あり、その撮影担当は大抵父親でした。構図を決めてピントを合わせてから一発勝負で撮影する写真撮影はわずかな緊張を伴うものでした。

 ところがデジタルカメラの普及で取り直しがいくらでも可能になり、さらに携帯電話の機能の一つになると。撮影は身近なものに変わりました。さらに自分の顔を自分で撮るというそれまでにはなかった習慣も誕生したのです。

 旅行先での記念写真でその地にいった証拠として己の姿が入った写真を撮るというのなら分かります。それほど特別な場面ではないのにセルフィを撮る人は結構いるようです。

 おそらくそうした人の行動を単にナルシズムで考えるべきではありません。その人を自撮りにかりかてるのはもっと別の情動が働いているはずです。私は自己確認の欲求によるものとみています。自分がどのように見えているのか、自分が何者なのか。私たちにとって永遠のテーマであるアイデンティティの確認作業の一つの現れなのではないでしょうか。

 私自身はめったに自分の写真を撮りません。しかし、自分に関心がないわけではなく、思っている自分と現実の姿の悲しいほどの乖離を認めたくないからなのです。

考え方次第

 まったく同じものを見ていても感じ取るものが違う人がいるということはよくある経験です。自分の感性がすべてだとは決していえないのです。

 たとえばあるものを手にするときに、右手で扱うか左手にするかでその後の成り行きは変わります。その人の利き腕が違えばまた異なる結果になる。身長の差だけでも世界は別の姿になるし、それをどう捉えるかも人それぞれです。同じものを見ていると言えるのかどうかもあやしくなる。

 だから、始めから同じものを見ているとは思わない方がいい。また自分が感受したものは他者には説明しなくてはならないときがあることを意識しておかなくてはならないのです。

 このことを分かっているつもりでいながら、いざというときにあっさりと忘れてしまう。それが私たちの宿命であり、欠点でもあります。悲観的になりすぎないための本能かもしれませんが。

発信重視

 ネットに浸っていると情報の洪水の中で何かが麻痺してしまいます。画面に表示された情報に接しているだけで自分が満たされているような錯覚をしてしまうのです。

 冷静に考えれば画面上に表示されたことはすべて他人にとっての出来事であり、私自身とは関係がないものです。関係を持つかどうかは自分の判断がはたらいた後で起こることであり、表示されただけでそれがまるで己の世界のことのように考えてしまうのは大いなる錯覚というものでしょう。

 このような状況に陥らないためにも、自らの言葉で世界を語る努力を私たちは怠ってはいけません。自分のつたない言葉で描ける世界は確かに少ない。でもそれを続けることで、自分という人間を世界の中に位置づけることができるのです。私が発信にこだわり続けるのはそういうことにあるのです。