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監視するだけではなく

 久しぶりにTwitterにアクセスしてみた。もっともいまはXというそうでそっけないロゴになった。最近のニュースではいわゆるブロック機能をなくすという発表があったようだ。したことも(たぶん)されたこともないので私には縁がないが、誹謗中傷から身を守る手段の一つのようでそれをなくすことには疑問を感じる。

 そのXの通知をみると、不道徳とか暴力的だというコメントとともに、該当する行為をしている動画が添付されていた。なんの加工もされておらず、個人の特定ができそうだ。確かに悪質なものもあり、許しがたく感じられるものもある。ただそれを不特定多数の人に拡散していいのだろうか。あるいは投稿者の思い込みの可能性や、悪意のある加工の果てではないのかなどと考えてしまう。告発する側は匿名であるのも不公平だ。

 ソーシャルメディアが監視のために使われている。あのパノプティコンの例えを想起されるのだ。個々の正義は保たれるように見えて実は社会をどんどん息苦しくしている。公衆道徳を高める方法は告発だけではないはずだ。

善意も悪意も

 非常事態が続くと人の本性のようなものが見えてくるのかもしれません。性悪説でも性善説でもないありのままの人間の姿が。

 マスクを高額転売したり、一部の人を差別したりする人がいる一方で、社会に貢献するために利己的献身的に働く人もいます。悪を糾弾する人、その後方にいて無責任に声をあげて結局憂さ晴らしをしているだけの人、人の気持ちを理解できない人など様々です。

 結局そのどれもが人間であってどんなに文明化が進んでいっても精神の発達は難しい。過去の歴史が繰り返していたことをいまだに続けている。これが人間の性であり、長所であり欠点でもあるのだと改めて痛感しています。