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視点を変えれば

 スポーツの試合結果を知りたいときに、見出しだけを見ると同じ結果でも全く違ったものに感じることはよくあります。快勝なのか、苦戦なのか。接戦だったのか、消化試合だったのか。同じ試合でも見方が変われば全く印象が変わるのです。

 結果だけを見ると大差がついている試合は、一方的にどちらかが試合を優位に進めていたかのように感じます。ところが、実際に観戦した人に聞くと、点数には表れていないけれども実力差はそれほどなかったという感想があることもあります。得点と試合経過とは異なり、また見る人の印象がどこに重きを置くかによって印象は大きく変わるのです。

 スポーツだけではなく様々な場面でこのことは言えます。結果を数値で表すことはその現象の一面を表現しているのに過ぎないのであって、それがすべてではないということです。私たちは結果ではなく経過を出来事として認識します。そして経過の印象は視点によって異なります。同じものを見ても別のものを感じるのが私たちの本質であることを思い出さねばなりません。

建物の寿命

 まもなく開業する南町田グランベリーパークの前進グランベリーモールは20年に満たない期間で取り壊されました。耐用年数は建て方によって異なるとはいえ、意外にも短い建物の寿命を感じさせます。

 かつて人類が急に消滅したらどうなるのかというSF映画がありました。荒唐無稽の設定ながら環境破壊に対する問題提起がなぜか印象的でした。この作品に関連して人類消滅後の地球の変化のシナリオを特集する番組がいくつか作られました。それによると人間が造り出したものの多くは意外にも早く地上からなくなってしまうらしいです。

 コンクリート製の建造物の多くはメンテナンスがなされなくなると崩壊してしまう。ビルや橋脚などはある日突然瓦解してしまうそうなのです。私たちが永遠と幻想しているものの大半が、実は弛まぬ努力によってようやく存在している訳です。

 鳥や虫の作るすみかをみて感じる脆さ儚さは実は人類にもそのまま当てはまります。私たちは自分の人生の長さを基準にして時間の長さを感じているのに過ぎないのです。ものやことの寿命を考える時に、それを測るものさしが何なのかを今一度考える必要があります。

手に負える時間

 常に忙しく暮らしている私ですが、多忙の中にも何とかなるときとそうでないときとがあります。時間は平坦に存在している訳ではなさそうです。

 ルーティンワークはいくら多忙でもなんとか切り抜けてしまうことが多いものです。場合によっては多忙であることに麻痺していることもあります。私の場合は朝の一連の動きについてはやることが多いのにあまり印象に残りません。

 対して普段やらない仕事や突発的に起きたことなどは重圧となって心にのしかかります。あとから考えばさほど大変でもなかったことに、多いに緊張し打ちのめされます。そういうことに当たるときの多忙感は非常に大きなものです。

 私にとっては手に負える時間と負えない時間とがあることになります。手に負えない時間が精神的負担をもたらすのならば、その時間を飼いならすための方法を考える必要があります。色々な克服法があり、さまざまなアドバイスもありますが、根本的な解決はできません。むしろこの時間帯はうまくいかないことが多いものと割り切らなくてはならないと考えた方がよさそうです。そのあとに手に負える時間がくるはずですから。

 時間が人間とは無関係に存在するものとは最近は考えられなくなってきているのです。

ハードワーク

 快進撃を続けているラグビー日本代表がインタビューのたびに口にする猛練習や犠牲という言葉になぜか懐かしさを感じます。どこか古き良き時代の香りが漂うのです。

 練習の努力は必ず報われる。成功したスポーツ選手はしばしば口にします。最近ではプロゴルファーの渋野日向子選手が活躍の裏に人一倍の練習を続けていることが話題になっています。恐らく練習を続けられること自体が一つの才能であり、それが結果として表れるということなのでしょう。

 努力は報われるという美談は現代では様々な障害に阻まれます。なるべく小さな努力で大きな成果を出すこと、効率性や生産性に意識が向きすぎている風潮にあって、汗水流すことは決して賢明ではないと考えられてしまうからです。スポーツのように明確な目標が見えない社会生活においてはまず何をどうやればいいのかを考えているうちに結局何もしないということになってしまうことが多いものです。

 無駄になってもいい。後になれば無駄でなくなるかもしれないというより俯瞰した考え方が必要なのでしょう。目先の効率性ばかりを考えていては現状打破は起きない。ときにはただ走る、ただ筋肉を鍛える練習をし続けていてもいいのだと考えるのです。

マイウェイ

 その人にはその人のやり方がある。その方法を極めることで達成できるなにかがあるということを時々考えます。

 英語ではwayにやり方、手段という意味もあるようです。日本語の道にも人生の意味を絡ませることがあり、道は人それぞれ異なるなどとたとえる表現があります。それぞれ違うはずなのにあたかも決まった幹線道路があり、そこを歩くのが正しいのかのように考えてしまうのはなぜなのでしょうか。

 他人を思いやる気持ちを捨てない限り、色々なやり方があっていい。それが結果的に他の人にもなることさえある。そんなことを考え始めています。

飛び立ちかねつ

 人間の悲劇というものは己の姿を俯瞰して見られないことにあると最近つくづく思うのです。

 私たちは自分の経験と知識の中で生きています。それは誰でも同じことです。自分以外の誰かになることはできないし、どんなに想像の翼を広げても自分の見た風景以外のものを実感として捕らえることはできません。だから、自分の経験こそが世界のすべてであるかのようにふるまい、それが間違いと分かってもどうしようもないのです。

 哲学者は俯瞰することを常としています。人間は…という大ぶろしきを敷くことが哲学では大切なのです。でも、私たちは結局自分の見たものしか見られないし、聞いたことしか聞けない。それ以外のものを知覚することすらできないのです。メタな認知をすることが大切だと知識人はいいますが、そもそもそれができるならば苦労はない。私たちは自分の経験のバイアスの中で世界をとらえるしかないのです。

 だから、私たちの考え方は根本的に独りよがりで利己的です。それを自覚することは大切だとつくづく思うのです。ネット社会は検索という便利な手段を提供してくれました。その陰で情報の一つ一つは結局、個人の経験が生み出した見解であるということが忘れ去られようとしているのです。

 もう一度根本に立ち戻るならば、自分の考えはあくまでも自分の正義の産物であり、それは必ずしも他の人に当てはまるとは限らないのであるということです。鳥ではない私たちは自分の姿を見下ろすことはできません。それが様々な悲劇をもたらしていると考えたのです。