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切り取り

 発言の一部を巧みに摘出し、ときに組み合わせて発言の内容を曲解することがよく見られる。切り取りと言うそうだ。短い動画が世界的に流行しているがこの歪曲された情報はその中でループされている。

 話法に譲歩の型というものがある。簡単にいうと、一般的にはAだが、私はBだと考える、といった論法で、筆者のいいたいことはBの方でAは比較される材料に過ぎない。しかし、悪意のある切り取りではAの方が引用され、真意は伝わらない。

 受け手としてはそれがどの程度の引用なのかを考えなくてはならない。本当にそんなことを言っているのか。限りなく原資料に遡及する努力は必要だろう。ショート動画やソーシャルメディアにそれが掲載されていても鵜呑みはできない。

 発信者の方も工夫が必要になる。切り取られにくい論法を考慮しておく必要があるのだ。どこが引用されても曲解されない工夫はやはり必要である。メディアリテラシーは細部に渡り必要になっている。何が本当でどこにまやかしが潜んでいるのか。常に注意しなくてはならないのだ。

弱みの暴露

 ネット上で他人を誹謗中傷してはばからない人たちのことが問題になっています。私はこの多くの原因を匿名性にあると感じています。ネットを自由に使えるという点において匿名の利点は大きいのですが、その陰に隠れて人道を外れた行為をすることに関しては許しがたい。

 まず私たちの情報の受け方として、情報源が分からないものは信じない、疑うというリテラシーが必要です。あるいは無署名情報をフィルタリングできるシステムを作ってもいいのかもしません。情報の発信者にモラルを求めても、そもそもそういうものが欠如している人には意味がありません。残念ながら無責任な情報は出てしまうので、それを機械的にカットする方法を普及させる必要があります。正々堂々と意見する人には遡及可能な署名つき発言を求めればよいのではないでしょうか。

 いずれにしても他人の悪口を公の目に触れるように書く人には、それなりの覚悟をして貰わなくてはならないでしょう。現状でも手続きを踏めば発言者までたどり着くのは可能です。これも周知させなくてはならない。本当に匿名でなんでもできると思い込んでいる人は多いのですから。

発信重視

 ネットに浸っていると情報の洪水の中で何かが麻痺してしまいます。画面に表示された情報に接しているだけで自分が満たされているような錯覚をしてしまうのです。

 冷静に考えれば画面上に表示されたことはすべて他人にとっての出来事であり、私自身とは関係がないものです。関係を持つかどうかは自分の判断がはたらいた後で起こることであり、表示されただけでそれがまるで己の世界のことのように考えてしまうのは大いなる錯覚というものでしょう。

 このような状況に陥らないためにも、自らの言葉で世界を語る努力を私たちは怠ってはいけません。自分のつたない言葉で描ける世界は確かに少ない。でもそれを続けることで、自分という人間を世界の中に位置づけることができるのです。私が発信にこだわり続けるのはそういうことにあるのです。