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笑いの型

 私たちが他人の話を聞いて感情を動かすのにはなんらかのきっかけが必要らしい。また、それがあればいいという訳でもなく、一定の条件が揃うことが必要になる。エンターテイメントの世界ではそれを巧みに創出して、感動を引き出す。

 漫才を見ているとそれを感じることができる。漫才などの演芸を観にゆく観客は、始めから笑いたいという欲望を抱いている。ただ、それを芸人が満たしてくれることを求めているのである。その期待を満たす者には高い評価があるが、ちょっとした手順の違いで笑いが発動できなければ批難の対象となる。その違いは極めてわずかで、文化的、個人的などさまざまなレベルでの差異を満たしたものだけが評価されることになる。

 感情の発露は極めて個人的なものであり、かけがえのない個のなせるわざとなんとなく思っていたが、実態は違う可能性がある。喜怒哀楽はそれが極めて個人的な体験のように思えるが、実は文化というよりは生物学的な事由により規定されているのかもしれない。私たちが泣くのは悲しいからだけではなく、いくつかの要件を満たす必要があるのだ。

 少なくとも今のところ明らかなのは、笑うためには手順が必要であるということで、それを演じ手側から言えば、型があるということなのだろう。観客を笑わせるためにはその型を巧みに利用する必要がある。

 笑いをどのように引き起こすのかは、昔からの課題であった。日常の中のわずかな非日常的側面の表出がそのきっかけになることは確かだろう。でも、ならば一定の条件をそろえれば笑いにつながるのかと言えば、否としか言いようがない。それが話芸の難しさであり、醍醐味でもあるのだ。

 漫才の繰り広げる典型的な芸態はそれを具象化してくれるものである。型、つまり笑いのツボが完成すれば、多少の不足があっても観客は笑いを発動する。なぜ出てくるだけで笑いが取れる芸人がいるのか、何をやっても受けないこともあるのかはそれに関わっているのかもしれない。

時代劇の効用

 いわゆる江戸物の時代劇がほぼ全滅していることは残念だ。中学生に大岡越前や遠山金四郎について尋ねたところ、ほぼ全員が知らなかった。昭和世代にしてみれば大岡捌きや金さんの双肌脱ぎの場面は当たり前だが、今の世代にはそれが通用しない。

 時代劇の価値観は決して理想的ではない。むしろ現代社会では否定されるべき要素も多い。でも、過去のモラルを比較対照の方法にするべきものとすることはできた。生活の中の古典というレベルにおいて。

 それがいまは大衆の多数派の考えに翻弄され、ようやく出てきた独自意見は個人の感想と纏められる。明らかにおかしな現実に対処できずにいる。

 時代劇の非現実性はそうした行き詰まりを打開する方法にはなっていた。正確ではないが、今の私たちの在り方もまた正解とは限らないことを明かしてくれていた。そういう役割を果たしていた時代劇が消滅していることはかなり不幸な事態ではないのか。