損して徳取れ

 諺に「損して得取れ」なるものがある。現状では損失になっても、結果的にそれが原因で得となることがあるから、目先の利益に捕らわれるな、くらいの意味で使われている。私の好きな言葉の一つだ。でも実は「得取れ」ではないのかも知れない。

 本当は「損して徳取れ」であったという考えがある。恐らくそれが元来の用法だったはずだ。利益が目的ではなく、いかに徳目に沿って自己実現できるのか。それがこの言葉の本当のメッセージであったはずだ。他人のために損失を被ることが結果的に自己の利益を損ねることにつながったとしても、自らが信じる徳を達成できるならば、それが大きな目標になるということだ。私が漠然と考えている理想もこれである。

 結果的に誰かのために自己犠牲をしたのだという判断になるかも知れない。現実の把握が甘く、安易な正義観にとらわれた結果の体たらくと笑われるのかも知れない。それでも自分の理想を貫くことには魅力を感じる。

 損をしても徳を失うなという考え方は恐らくいまの効率性を最重要視する考え方との親和性が低い。そんなプライドが何になるのかと言放つ輩がいる。彼らにいちいち自分の立ち場を説明する覚悟はないが、心のなかで徳を取った自己満足を味わいたいとは思っている。

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