学校で習う文法は金科玉条のようなものと思っていた。学生の頃はそれを覚えることが何よりも大切なことと思い、教員となって教える側に立つと最も頼り甲斐のある物差しと考えるようになった。文章読解と文法の問題を比べると後者の方が何百倍も容易い。そう思っていた。
ただ、学校文法には様々な疑問点があった。可能動詞の「走れる」は走るとられるが連続した「走られる」とどう違うのか、「本を読まれる」と「本を読める」との違いは何か。可能とか使役とか命名された文法を考えると曖昧さが判断を困難なものにする。文法用語を使うほど分からなくなる気がする。
こういう感覚的な違和感はいくらでもある。これはとりも直さず文法が実態と、あっていないことを表すのではないか。国語を少し真面目に勉強した者であれば誰もが気づくことなのだが金科玉条の前に誰もが尻込みしてしまう。
文法というものはどうも自然科学が目指す普遍性とは少し異質なものらしい。もっと柔らかく、可塑的なものらしい。そう考えてこそ見えてくるものがある。