学生の頃、恩師の講義はもれなく記録しようとしていた。ときには小型カセットデッキを持ち込んで録音したこともある。ただ、いま考えると一字一句書き留めることには、それが講義そのものの記録を目的にするものでない限り必要ではなかったと考えている。講義の中で何を講師が伝えようとしているのかをまとめればよいのだ。
その意味においてノートは講義の記録ではなく、講義で得た知見を自分の中に内在化させるための手段の一つなのである。教わったことを自分が使えるものにするために場合によっては自らの経験や知識を加味してまとめ直すことが行われる場なのだ。
このことは中等教育の時点で教えておく必要を感じる。単に黒板の文字を写しておしまいではなく、それを自分の言葉で説明できるようにしておく。そのための作業をするための空間がノートなのだと言える。
きれい書くとか、カラフルに書くといった指導は要らない。本人にとって自分の思考が展開できるものであればよいのだ。よく、有名大学生のノートを模倣すべきだという発言があるが、これも絶対的なものではない。個人にとって使えるものであればなんでもいいのだ。講師との対話、もしくは自分自身との対話が模擬的に行われるスペースなのだ。
ノートに関しては私自身も最近は講師の話を批判的に聞き、メモには自分の考えも加えている。その方が余程記憶に残るし、使える知識になりやすい。