文句を言う老人

 学生の頃、民俗採集のために訪れた祭礼でいたたまれない光景を目にしたことがある。それは高齢者が祭礼において必死に演じる若者に対して罵声を浴びせる姿であった。

 こういうと現代人は老害の何のと言い出すが、それは的を射ていない。むしろとんでもない間違いだ。若者たちは老人の振る舞いに感謝こそすれ、恨みなど決して抱くことはなかったのだ。そして、自らもその老人のようになることを夢見ていたのである。

 これは民俗学の世界では常識だ。高齢者は村祭りの経験者として、後進に祭事の詳細を伝達する役割を持っていたのだ。過去の振る舞いを忠実に模倣することを理想としていた社会において、高齢者は実践的にそれを示すことで村に貢献する役目があったのだ。

 それにしても祭礼の当日に衆人環視のもとであんなに批判する必要があるのかとも思うことがある。本番の舞台で演出家が役者を罵倒していいものだろうか。そう考えてしまうが、これも昔の考え方からすればお門違いだ。現代の芸能の観客は人間であり、しばしば観覧料を徴収するショーであるが、祭礼の観客はあくまで神であり、私のような村外からの訪問者は単なる傍聴人ですらない。神のために最善の振る舞いをすることが目的であり、そのためには演技の途中でも注文をつけなくてはならなかったのだ。

 私の見た祭礼はそれでもかなり有名になっており、明らかに研究者やそうなりたい院生たちの姿がかなり見られた。それでもまだ年配者が口を挟んでいたのを見たのは貴重な経験だったのかもしれない。観光資源と考えられてしまうと神のためではなく、金を落としてくれる余所者のための祭礼となり、本来の荒々しさは消える。演劇のような展開と無難な結末が用意されたイベントになってしまう。

 すると高齢者の出番はなく、むしろ余計な口出しをしないように戒められることになるのだろう。祭りを遠くから見守り、直接の関与はできない立場に追い込まれているのである。

 理不尽な振る舞いをする高齢者がしばしば取り上げられ、脳の衰えという文脈で説明されているが、果たしてそのすべてが真実なのだろうか。むしろ批評家としての彼らの発言権を無にしたことで起きている弊害ではないか。過去がよかったという訳では決してないが、先輩の経験を活かせない時代こそ、不幸であると考えるのである。

文句を言う老人” への1件のフィードバック

  1. ピンバック: awareness

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