高名な学者が書いた学習法の本に、覚えたことは資料ごと捨てるべきだと書いてあった。効率よく学習し、よりクリエイティブな思考をするためには個々の資料に拘泥してはならないという考えであったように記憶している。これはこれでもっともであり、説得力がある。ただ私にはどうしても受け入れがたい意見であることも確かだ。この違和感はどこから来るのだろう。
それは私の歩んできた学問の性質が関係しているのかもしれない。先の学者というのは物理学の専門家であり、世界を法則で捉えようとする学問の大家である。法則を発見することに全力を注ぐ学者にとって、個々の資料はその手段に過ぎない。なんと書いてあろうと期待する法則性を立証するために役立てばいいのである。
対して私が学んできた古典文学は資料そのものに多様な意味がある。たとえばなんという言葉が使われているか、どんな紙にどの様な字が書かれているか。こうしたことがすべて大切だ。必要なのは記号化された文字情報だけではなく、それが書かれたもの自体に意味がある。これは資料には様々な意味が包含されていることを意味する。
そしてたとえ出版物であっても、世間に流通した件数が少ないこともある。そういった資料はここで逃すと二度と出会えないかもしれないという気持ちで大切に扱う。そして、使い終わっても廃棄できない。その資料が再び使える日が来るとどこかで思っているからかもしれない。
私がいつまで経ってもものが捨てられないのはこの様な学問的な背景があると考えてみた。私のような考え方は今の時代にはあっていない。情報はなんでもデジタル化され、高速な検索と編集の技術によってデータベースになっているから、学習者は個々の資料を特別なものとは思わない。
私のような考え方は冗長で無駄が多いと思われる。瑣事にこだわり前に進めない思考法とみなされている。おまけに片付けることができないことを非難材料にされることも多い。効率が悪いとも言われる。対して最近流行りの学習法は効率を追求するあまりに物の本質を見失っているか、意図的に見ないで済ませているのではないだろうか。彼らにとって進むべき道は最短距離の一本道で、迷うことなく通り過ぎることをよしとしているのだ。
資料を切り捨てる人たちの考え方はとても洗練されており魅力的な気がする。その反面でなにか大切な側面を忘れていないか気になる。多くの切り捨てられた部分はその局面では不要なものだったかもしれないが、見方を変えればそこに意味があったのかもしれない。私はいつか光るかもしれないガラクタの石をいつまでも持っていたい気持ちなのである。