物事を学ぶときには謙虚な方がいいとは昔からよく聞く話だ。これを少し別の表現で言うならば、自分が未完成であり発展途上であると自覚できることが学びの奥義であるということになる。まだ学び足りないことがあり、学習によってさらなる向上があると考えられることが必要だということである。
そんなことは知っている。それは聞いたことがある。そういう発想は学習を阻害する。知っているのに更に学習するエネルギーを費やすことは無駄だと感じてしまうからだ。無駄なものにエネルギーを使わないことは生きるうえで必要な進化上の獲得物である。それ以上の知識や技能は要らないと考えると知的な進歩は止まる。
ならば、学習を促進するためには好奇心を保つのが要件となる。学びたいと思う気持ちを持つためには、自分の無知をどれだけ自覚できるかが問題になる。自分には知らないことがたくさんあり、学ばなくてはならないことが山積している。そして、それを知ることは楽しいことであり、少々の努力は苦にならない。こういう心の持ち方が求められるのである。
こんなことを書きながら、私自身が学習意欲の低下を自覚している。脳の経年的機能低下とか、体力の低下による集中力の維持が困難になっていることなどが主因であろうが、それと同じくらいあるいはそれ以上に問題なのは、好奇心の低下だと考えている。ある程度の経験を重ねた現在の私は、新しい知識なり、やり方なりを学び直すことが億劫だと無意識に考えている。手持ちの工具でなんとか処理できるから、新しい道具はいらないというのと似ている。
ならば、学びのためには自分が少々劣った存在であると自認できる必要がある。逆に言えば自分より優れた人物が存在すると思えることである。宮本武蔵ではないが、我以外皆師と思えるのは学習者としては理想なのかもしれない。そう思うためには誰からでも学ぶことができると思えることだろう。これが謙虚であるということなのだ。街で偶然出会った老人からも学ぶことができる人はおそらくかなり効果的な学習ができる人だ。
