認めたくはないのだが、自分の風貌が年老いた亡き父に似てきつつあることを自認せざるを得ない。残念だが確実にその方向に向かっている。
父に対しては複雑な思いがある。苦労人で人当たりの良さで乗りきってきたキャリアであったようだ。子どもの視点で見れば泥酔して帰るだめな父親であったが、面倒見がよかったらしく、部下からの信頼は厚かったようだ。父のおおらかさに救われた人は多かったようである。
私もその気はあるとは思うが、肝心なところで突き放してしまう冷たさを持っている。深く関わらないことが美徳と考えているのだ。これは相手を傷つけないが、代わりに何も残らない。
父親は懸命に生きたあまり、無意識の残酷さもあった。自分の尺度でしか世の中を見ることができず、常に調和を重んじ、突出することを嫌った。だから、大きな損失がない代わりに現状打破のエネルギーがなかったのである。これは子どもの可能性を狭めるものだった。
この方面の精神性はかなりの高い水準で受け継いだ。挑戦よりは現状維持を重視することは紛れもない事実だ。すべてを親のせいにするつもりはないが、環境も含めて遺伝した可能性は大きい。最近、これに気付いた私は結構破れかぶれの行動を厭わなくなっている。失敗する余裕ができたということなのだろう。
父が亡くなってから、私はその思い出をなるべく封印しようとしてきた。思い出せば何かが壊れてしまうように感じていささか恐ろしかったのである。少し客観的になれるようになっているいま、何を受け継ぎ、何を捨て去るのかを考えられるようになってきた。