自分のことをよく分かっていないことが私にはしばしばある。自分がどのようにみられているのかは結局のところ自分ではわからない。だから、自分像は想像の産物だ。その想像が現実と食い違うことがこの原因である。
自分は他人にとっては他人である。自分が他人のことをある印象でとらえるように、自分もまた誰かによって特定の印象で捉えられている。それがどのようなものなのかは分からない。自分の存在を意識するのは、他人に見られているときである。人前だと緊張するのは、他人の目があることを意識することで強く自己を意識するからだろう。その意味では他人に見られることで自分というものができあがるといえる。

脳科学の世界には鏡像認知と呼ばれる考え方がある。鏡に映った自分の姿を自分だと認知する能力のことである。人間の場合2歳児になるとこの能力が備わるのだという。逆に言えばそれ以下ならば鏡に映っているものが何者かわからないということになる。脳の発達とともに、おそらく他者とのふれあいの中で自分を認識できるようになっていくということなのではないか。
鏡に映った自分を、これは自分だと認識し、今日はさえないとか化粧のノリがいいとか悪いとかいう場合、その映像を自分としてとらえるとともに客観視していることになる。鏡に映った像を別の鏡が映しているのを見るとさらに話は複雑になっていく。自分は何者かに写されることによって存在感を増すが、それを観察している自分はその実態を客観的にとらえている。
自分を客観的にとらえるということは実際の自分を別の自分が描写することなのだろう。すると、その描写の仕方によって自意識が変わってしまうことになる。私がしばしば味わう、思っている自分と実際の自分の大きな違いはこんなところに原因があるのだろう。