あまりに多忙なときはやることが機械的になっている。予め決めた手順に従えはうまくいくことが多い。ただこれには達成感が伴わないのが問題だ。
大量の作業を成し遂げたという達成感ならある。しかしこれならば自分でなくてもできたはずと考えると虚しさが漂い出す。機械の歯車になることを潔しとしない自我が立ち上がる。
効率を上げることとやり甲斐を感じることとは必ずしも一致しない。仕事がどんなに早くてもああはなりたくないという同僚はいる。あれでは機械と同じだ。何が面白いのだろうなどと考えてしまう。
恐らくこれは私の偏見だ。仕事が早く何も考えずに済ませられるのは現代人が求められている資質の一つではないか。そのコンピテンシーすら人工知能に売り渡そうとしている。その哀れさに気づかないことに我慢できるのは一種の才能だ。
私のような旧型人間はこの効率重視の世の中でうまく立ち回るしかない。仕事の大切な要素を諦める代わりに、浮いた時間で思い切りアナログなことを展開しよう。アナログという言葉を想起した時点ですでに毒されている。無駄な時間をかけて話し合い、冗談を言い合おう。幸いまだそんなことをしていても排除されることはない。ならば思い切り旧世代らしく振る舞うしかあるまい。