セリヌンティウスはなぜ笑う

 太宰治の『走れメロス』は教科書の定番テキストであり、授業で無理矢理読まされた人を含めれば、世代を越えて多くの読者を持つ作品だ。この作品には多くの謎があり、それを解明しようとする見解も多い。

 有名になったのがメロスの故郷と刑場のあるシラクスの距離の設定だ。素直に読むと10里あまりだ。日本の里の単位とすればマラソンコースほどしかなく、これを日中すべての時間をかける必要はないというのだ。

 この小説の典拠になっているのはシラーの「人質」という詩で、小説が発表される3年前に小栗孝則訳の詩集が直接の参考資料と考えられる。酷似の表現が散見することからほぼ間違いない。ただ激怒する場面から始まったり、王の内心の吐露や、挫けそうになるメロスの葛藤、フィロストラトスの設定などにそれとの違いがある。

 ただそれにしてもなぜセリヌンティウスが命に関わる人質となることを快諾したのかは依然として分からない。太宰治は竹馬の友と言う説明だけで終わらせている。

 ただ、走れメロスの初期の読者はこの突拍子もない契約をすんなり受け入れられたのかもしれない。この時代の少年雑誌「赤い鳥」に鈴木三重吉が発表した「デイモンとピシアス」という話には人質交換のモチーフがある。これによると、ピタゴラス派の人々は人情を離れ理知的に生きることを至高の徳としていたという。情を捨て理に生きよという考え方は見方を変えればかなりの危険思想だ。理想のためには命を捨てても構わないということなのだから。

 シラーの詩のさらなる典拠はギリシアの伝承にある。その伝承の一つのデイモンとピシアスの物語がかような原理主義者たちの物語だとなると、その影響下に生れた太宰治の小説にもその影響はあると言うしかない。人質になるというセリヌンティウスにとってはまったく利益のない選択を即答で受け入れるのも、間に合わないかもしれないと感じても刑場まで走ったメロスも、まさに信実という理想を第一にするビタゴラス派の思考法と考えられるのである。

 流石に現代人太宰治はこのフレームには素直に従えなかったようだ。メロスを挫折させ散々に弱音を吐かせる。セリヌンティウスもメロスをチラと疑わせる。それが人情というものなのだろう。セリヌンティウスがメロスの信実を信じて、余裕を持って人質になるのはそういう思想の背景があったのである。

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